まずい、と、そう思った時には遅かった。
あたりは深緑が広がるばかりの暗い森。もちろん、見覚えのある景色などどこにもない。
まいったな、とイギリスは髪をかきあげた。
それは、迂闊過ぎるといってもいい出来事だった。
イギリスにとって“彼ら”は良き隣人であり、小さき友人である。
だが人間同士――イギリスたちの場合は国同士――でも友人間に遠慮や礼儀が必要なように、踏み込んではいけない一線というものがあるのだ。
それを今回、イギリスは思いっきり踏み越えてしまった。
「フェアリーサークル……」
彼らが、イギリスが友と呼ぶ妖精たちが、聖域とする場所を侵してしまった。満月の夜に彼らが踊るその円陣に人が迷いこめば、“向こう側”へと引き摺り込まれてしまう。
そんなこと重々承知だったはずなのに、なんでこんなミスを犯してしまったのか。
深い森をさまよい歩きながら、イギリスは唇をかんだ。
それもこれも、あいつが悪い!
責任転嫁だとは分かっていても、そう責めずにはいられなかった。
喧嘩ばかりしている。言い合いばかりしている。恋人なんて関係は、染みついた意地も何もかもを引き剥がしてはくれなくて。
一番嫌いなのは、嫌気がさすのは、すなおになれないじぶん自身。
ああ、もう立ち止まってしまおうか。
月が出れば彼らも動き出す。最悪一晩この森で過ごすことになるかもしれないが、帰る見込みがないわけではないのだ。早く戻ろうと、出口を探して急ぐのは、待たせる奴がいるから。
喧嘩をして、屋敷を飛び出して、庭園内にあった“彼ら”の領域に迷い込んだ。だから、きっとまだ屋敷にいるはずなんだ。それとももう帰ってしまったかな。このまま帰らなくても、勝手に飯食って、勝手に寝て、どこに行ってたんだい、なんてあとから文句を言われるだけなんだ、きっと。
それでも出口を探す足が止まらないのは、
「イギリスー」
森の奥から聞こえてきた声にはっと顔を上げた。俯きがちになっていたことすら自覚がなくて、よくない傾向だと思った。
「イギリスー、いたら返事してくれよー」
これはあれか、幻聴か何かか? 妖精さんの悪戯か?
「イギリスー、って、いるんじゃないか。返事くらいしてくれよ」
「アメ、リカ?」
これはあれか、幻覚か何かか? 妖精さんの悪戯か?
「おーい、イギリスー? 大丈夫かい?」
「お前、なんでここに、」
「なんでって、君を探しにきたに決まってるじゃないか。その辺で迷子になってる駄目な人を迎えに行くのもHEROの仕事だからね!」
そうやって皮肉を満開の笑顔でのたまうこいつは、間違いなくアメリカだった。
そのままイギリスの腕を掴んですたすたと歩き出そうとするアメリカを慌てて制止する。
「ほら、帰るよ」
「待て待て待て。帰るってどうやって、」
「? 元来た道を引き返せばいいんじゃないのかい?」
「お前……自覚なかったのか……」
「だから、何のことだい?」
フェアリーサークルに迷い込んだのだと、果してこいつに言ったところで信じるのだろうか。いつもイギリスの語る妖精を幻覚だと笑い飛ばすアメリカのことだから、絶対に信じないだろう。
さて何と説明したものかとイギリスは頭を抱えた。
「もー、どうでもいいから帰ろうよ。ここも君んちの森なんだろ。だったら歩いてるうちに帰れるよ」
そう言ってアメリカは再度イギリスの手を引いた。優しい強引さを伴った所為に、イギリスは引き摺られるようにしてそれに続いた。
ただひたすら、無言で歩き続ける。
沈黙は嫌いではない。けれど、アメリカが押し黙るという状況が、イギリスは少し苦手だった。
「待て、」
「……何?」
しばらく続いた沈黙の後、突然イギリスが足を止め鋭く、けれど低く言葉を発した。そこに不穏なものを読み取ったアメリカも足を止め、イギリスに向き直る。
「今、何か音がしなかったか?」
「音?」
「ああ。多分獣だと思うが、かなりでかい。耳を澄ませてみろ」
そうイギリスが囁いた矢先、二人の背後でがサリと茂みが揺れた。
「あー、今のは聞こえたよ」
アメリカが鈍く体を反転させる。恐る恐る背後を見れば、そこにいたのは、
「牛?」
「イェール……」
ポカンと間の抜けた声を漏らしたアメリカと、低く恨めしげに聞きなれない名を呟いたイギリスはお互いの顔を見合わせた。
「あれ、牛じゃないのかい?」
「牛よりでかいだろ。あれはイェールっつって、」
「ん? もしかしてそれエアレーのことかい? それって確か君んちの王室の紋章に使われてなかったかい?」
「確かに旗持ちにデザインされてることはあるが……」
「なら安全だね。君んちの幻覚なんだろ?」
「幻覚じゃねぇよ、ばかっ。大体、そんな安直な理由で安全だって決めつけるのは早いぞ」
目の前に現れた、牛に似た獣。イノシシのような牙をもち、鋭く長い一対の角を持つ。この角はどの角度にも向きを変えられるのが特徴だ。
長い睫毛に縁取られた夜色の眼が苛立たしげにアメリカとイギリスを見据えている。そこに見えるのは、紛うことなき敵意だ。
「縄張りに入り込んじまったのは俺たちのほうだしな。刺激しないように距離をとるぞ」
「どうしてだい? あんなの一匹くらいなら楽々倒れるんだぞ」
「黙れ。とにかく早く、」
ざっ、とイェールがその蹄で大地を掻く。それは苛立ちが募っていることを示している。
アメリカとイギリスはその巨体から目を離さぬようにゆっくりゆっくりと後ずさった。
「ぅえ?!」
「っ、イギリス?!」
木の根に取られてイギリスがバランスを崩す。思わずあげた声にイェールがその鋭い角を構えて突進してきた。咄嗟に倒れかけたイギリスを支えたアメリカは一瞬で判断を下した。
応戦か、逃亡か。
イギリスを抱えたままこの場で応戦するのは、危険すぎる。
「っ! これは戦略的撤退なんだぞ!」
言い訳のように叫び残して、アメリカは背後に向かって大きく大地を蹴った。イギリスを肩に担ぐようにして深い森を駆ける。
走る。走る。走る。
けれど、深く障害物が多いはずの森をその巨大な獣はさながら遮るものがないように直進してくる。イギリスを下すタイミングが掴めずに、その痩躯を肩に担いだままアメリカは走り続けていた。
「っこれ、いつまで走ってればいいんだいっ?」
おかしい。体力には自信があるはずなのに、踏み出す一歩一歩に体力を奪われていくようで。このままでは追いつかれてしまう。
「ユニコーン、」
「は? こんな時まで幻覚かい?」
「幻覚じゃねぇ! 隣見てみろ」
イギリスに指摘されてアメリカはちらりと視線を横にやった。そして、息をのんだ。
白くうつくしい獣が、アメリカと並走していた。馬よりも一回り大きい体躯。仄かに発行する純白の毛並み。額には、細く鋭利で怜悧な角。
その生き物が、促すようにアメリカを見る。
「乗れって言うのかい?」
呟けば、肯定を示すように角を軽く突き出された。これに掴まって乗れというのか。
イギリスを抱えなおして、アメリカは思い切って角に手を伸ばした。がっしりと握れば、ぐい、と強い力で馬上に引き上げられた。
イギリスを前に座らせてその体を抱え込むようにして馬の鬣を握る。するとぐん、と速度が上がった。
流れていく景色に、やがて意識も溶けて行った。
瞳をあげると夕暮れだった。
落日に赤く染まる部屋には嫌というほど見覚えがあって、アメリカは大きく欠伸をした。夢と現実の区別がつかなくなるなんて、どっかの魔法老国みたいだ。そのどっかの誰かはアメリカの隣でくぅくぅと寝息を立てており、そののんきな寝顔に妙な憤りを感じた。
この人を抱えて走るのがどれだけ大変だったことか!
腹立たしさに任せて彼を揺り起こす。
「イギリス、イギリス。もう夕方だよ」
「ん、あれ、イェールは……」
「まだ寝ぼけてるのかい? 早く晩御飯を作ってくれよ。すっごくお腹が空いてるから、今なら君の料理もいつもの-1.2倍くらいおいしく食べれそうだよ」
「おい待てなんでマイナスなのにうまくなんだよ」
「だって君の料理は基本マイナスだろ」
「てめぇ!」
「ほらほら、無駄口叩いてないではーやーくー」
「あーもう、分かった。作ってやるから。どうせ泊ってくんだろ? 自分で部屋用意しとけ」
「君のとこ行くから必要ないんだぞ」
そう言い放てばイギリスは夕日で赤くなった顔をさらに赤くした。何事かぶつぶつ呟きながらも大人しくキッチンへと向かうイギリスの後姿を見送りながら、アメリカは自分の手に目を落とした。
寝ている間に強く握りしめていた手を開けば、見覚えのない銀色の毛が数本指に絡みついている。それを無言で見つめていたアメリカだったが、何かを吹っ切るように立ち上がるとごみ箱の上で手に付着した毛を払った。
すべてすべて。
夢であったことにしておこう。
今日した喧嘩も、言い合いも、全部全部。
代わりに今夜は目いっぱい甘やかしてあげるから。
安藤澪様リクエスト「国設定の米英だけど、英国でファンタジー的な幻想(悪魔とか魔物とかの類)と遭遇、2人でピンチを切り抜けるお話」とのことでしたが、こんな感じでよろしかったでしょうか。うん、なんか違う気がする……なんだかよくわからない仕上がりになってしまいました。
とりあえずユニコーンさんの角がアメリカの体重で折れないか不安。
では、リクエストありがとうございました&書き直し承ります。(12/04)