そこは、光の届かない場所だった。
遮光カーテンで閉め切られた薄暗い部屋で一人、カンバスに向かう。
古びた旧校舎は新しい校舎が完成してからは、主にサークルなどの活動場所として利用されていた。
第3美術室はそんな旧校舎の中でも奥詰まったところにあり、近づくものは滅多にいなかった。
遮光カーテンが閉められた状態で固定されてしまっているせいで窓は開けられないし、設置されたエアコンは壊
れていて使い物にならない。
常に薄暗く、空気は淀んでいて、夏は暑く、冬は寒い。
そんな劣悪な環境の部屋に住みつくのは、何百という人の通うこの大学の中でも、アーサー・カークランド唯一人
だろう。
初夏のきらきらとした日差しから逃れるように旧美術室にこもり、オケ研だか軽音部だかの演奏をBGM代わりに
アーサーは今日も絵の作成をしていた。
先ほども言ったように、旧校舎の第3美術室は大学内でも1,2位を争うほどの環境を持った教室であり、近づく
者もほとんどいない。そのことがアーサーにとっては好都合だった。
たいていの学生は新校舎の真新しい教室で作品作成をしている。世界中から集まった才能ある若手達だ。
そんな中に混じって作業をすることはアーサーの過敏な劣等感をちくちくと刺激する。
「お前の絵には訴えかけるものがない」
そう言われたのは何時のことだったか。
あまりのショックに当時作成していた絵をビリビリに引き裂いてしまった。
それでも筆を手放すことをしなかったのは、やはり絵を描くことが何よりも好きだったからだろう。
だからこそ、アーサーは本国を飛び出してこの国に来た。名門と呼ばれるこの大学に来れば、才能ある者たちと
もっと関われれば、何かが変わると信じていた。
だが、現実はこれだ。
自分に才能がないことくらいわかってはいても、それを否定されるのは耐えきれなくて。誰にも関わらないように
と、誰にも自分を否定されないようにと、アーサーはこんな場所で絵を描いている。
目の前にあるカンバスにはすでに大体の形が浮かび上がっている。思うままに色をのせていく。絵を描き始めれ
ばそこはアーサーだけの世界だ。ただただ、絵の世界に没頭する。
なのに、
近頃、アーサーはその世界にも浸り切れていなかった。
日常生活を送っている時だけではない、絵を描いている時ですら思考を侵食する焦燥。見えない壁に道を阻まれ
ているかのように、先に進むすべが見つからない。
確かに自分の思うものを描いているはずなのに、何かが足りない。
その足りないものが、きっと絵が訴えかけてくるものなのだろう。
ここが自分の限界か……
この絵を描き終えたら、絵の道をあきらめよう。そう思った。
荷物をまとめて本国に帰って、絶縁状態の親父に頭下げて何とか働かせてもらおう。兄さん達からはきっと馬鹿
にされるだろう。3人とも自分のように己の才能を過信することもなく、堅実な道を歩んでいるから。
本来ならそんな行為はそれこそアーサーの自尊心をギタギタにするものであったが、そんな道さえも視野に入れ
てしまえるほど、アーサーはこの現状を憂いていた。
慢性的に絵を描くだけ。そこに夢見るような高揚感はなく、鮮やかな色彩は生まれない。
そんな状態に陥っている自分が、何よりも許せなかった。
最後ならば、と。
最後ならばせめて自分のすべてを注いでやろうと、アーサーはカンバスに再び色を重ねた。
その時、
唐突に軽快な口笛の音が響いた。
ばっと美術室の入口を振り返ると、自分と同い年くらいの青年が扉にもたれて立っていた。
明るい金髪に青い目。ジーンズにパーカーというラフな服装。確かにこの大学の学生のようではあるが、とてもじ
ゃないがこんな旧校舎の奥までやってくるようなタイプには見えなかった。
アーサーと目が合ったことに青年がにっこりと笑った。
「君がアーサーかい?」
「あ、うん、そうだけど……」
「はじめまして。俺はアルフレッド・F・ジョーンズ。君のファンだよ」
アルフレッドの言葉にアーサーは目を丸くした。初対面の人間にそんなことを言われたのは初めてだった。
「俺に何の用だ?」
跳ねた心臓を悟られたくなくて、ぶっきらぼうに言った。
「君をスカウトしに来たんだ」
「スカウト?!」
「そう、スカウト。ああ、今すぐってわけじゃないから。将来、君には俺が作る映画の美術を担当してもらいたいん
だ」
「お前、映画監督志望か」
確か大学の学部にそれらしきものがあったから、そこの学生だろう。
「ただの映画監督じゃないぞ。アニメーション映画さ!」
そう言ってアルフレッドは大きく腕を広げて見せた。その笑顔は希望に満ち溢れている。薄暗い教室の中で、彼
のまわりだけが輝いている錯覚を覚えた。
「これから他のスタッフもスカウトに行くんだぞ。まずは同じ学部の本田菊だろ。動画の編集がとっても上手なん
だ。聞いたことあるかい? 彼、日本にいたころに“職人”って呼ばれてたんだってさ。それから音楽はフランシス
だな。あの髭はいただけないけど、彼の作る音楽はファンタスティックだからね。あとは……」
きらきらと目を輝かせて語るアルフレッドが出した名前は、構内の情報に疎いアーサーでさえ知っているものば
かりだった。
きっとこいつが声をかけたらみんな賛同するんだろうな。
それはぼんやりとした実感でありながらも、どこか揺るぎのないものを持った確信だった。
そんな有名人ばかりで構成されたスタッフの中に紛れ込んだ、己の名前。
「なんで、俺……?」
もっと絵のうまいやつらがたくさんいる。もっと才能がある奴らがたくさんいる。俺なんかよりふさわしいやつらが
たくさんいる。
そんな中でアーサーが抜擢された理由がわからなかった。
「言ったろ。俺が君のファンだからさ」
「ファンって言ったって、俺何のコンテストにも出展なんてしてないぞ」
どれだけ絵を描いても出展させてもらえなかった。こっそりと出展した展覧会は予選落ちだった。誰かの目に触
れる場所で絵を描いていたならともかく、この美術室で絵を描いているときに人が来たのはアルフレッドが初めて
だった。
自分の絵が他人の目に触れる機会なんてないのだ。
「この前先生が美術室とかの整理をしてたろ。その時中庭に沢山絵を並べてたから何となく眺めてたんだ。その
時に君の絵を見つけて、一目見ただけでこれだって思ったんだ」
その整理には心当たりがある。美術準備室に積み上げられた絵画の処分をするための整理だ。何処にも出展さ
れなかった作品たちを、そのまま保存しておくわけにはいかないのだ。
何十人という学生が毎日絵を描いている。無名の、一学生が書いた絵をすべて保存するスペースなど大学には
なかった。
描いた絵は学校側で処分してもらうか、自分で持ち帰るか。
アパートメント暮らしのアーサーに絵を持ち帰ることは不可能で。本国の自宅に送ろうかとも考えたが、あれほど
アーサーが芸術の道に進むことを反対していた家族だ、きっと燃やされてしまう。
結果、アーサーは自分が描いた絵が処分されるのをただ見ているしかできなかった。
「絵って、どれのことだ?」
処分された絵は数多い。アルフレッドが気に入ったという絵がどれのことか、アーサーには判別できなかった。
「空の、蒼空の絵だよ」
その言葉に、ただただ驚いた。
「あれが、空だって分かったのか?」
「分かったって……空以外の何に見えるって言うのさ」
大きなカンバスに幾重にも青を重ねて描いた青空。幾つもの青を重ねて描いたそらいろ。
それを講師には理解してもらえなかった。ただ青い絵の具を無作為に重ねただけの絵だと。
「あれは、この国の空だろ」
「ああ、西部の、あの青空が忘れられなかったんだ」
「行ったことがあるのかい?」
「こっちに越してくる前に、17の時だったかな、一人旅をしたんだよ。荷物もろくに持たないで。野宿とかもけっこう
したな」
荒涼とした砂色の大地。乾いた風。見上げたのは、果てのない青空。
「だからかぁ。俺、西部出身でさ。あの絵を見たとき思ったんだ。あ、故郷の空だ、って」
納得したようにうなずくアルフレッドに、アーサーは驚かされるばかりだった。あの青い絵を青空だと言ってくれ
た。かつてアーサーが見上げた、あの空だと。
「あ、あの絵俺が譲ってもらっちゃったんだけどよかったかな」
「は?」
「聞いたらもう処分しちゃうっていうから無理言って譲ってもらったんだよ。大きいから持って帰るの大変だった」
アルフレッドがからからと笑う。型破りな男だと思った。
その時に君の名前も教えてもらったんだ、とアルフレッドが続ける。
「結局君の絵はあれ一枚しか見たことないんだけどさ、俺が映画を作るならこの人にしようって決めてたんだ」
「はっ、ばかじゃねぇの。俺なんかよりお前に見合う奴はいくらだっているよ」
「随分と俺のことを評価してくれるんだね」
それは俺のセリフだと思ったが、それを口に出すのもどこか憚られてアーサーはふいと顔を逸らせた。
「ところでさ、さっきから気になってたんだけど“彼女”はいつ完成だい?」
アーサーの後ろのカンバスを指して、アルフレッドが問う。
淡い青を重ねたそれはセイレンをモチーフにした乙女の絵だった。こうやって見てみると自分は空色が好きなの
だろうかと、アーサーは見当違いなことを考えた。
「さあ、いつだろうな」
アーサーがカンバスの縁をやさしく撫ぜる。完成図は頭の中にある。だがそれをカンバスの上に表現できるかと
言われればそれは別だった。
美しい、この世にまたとない水の乙女を。
願うばかりで、自分の技量が追い付いていない。
アーサーはアルフレッドがいることも忘れて深いため息をついた。
それを見たアルフレッドがおもむろに立ち上がった。
「気になってたこともう1つ」
つかつかと窓際まで歩み寄ったかと思えば、遮光用の暗幕に手をかけて、
「おい、何する気だ!」
力任せに引っ張った。
ガガッ、とカーテンがレールから外れる音がする。壁に打ち付けられて固定されていた部分はビリと悲鳴を上げ
て裂けた。敗れた暗幕の隙間から太陽光が差し込む。
薄暗い空間に慣れた目を光が焼く。
反射的に細めた視界に、光の射しこむ窓をバックに立つアルフレッドの姿が映った。逆光であるにもかかわらず、
その口元が笑みを形どっていることが分かった。
「君の絵は太陽の下で見るのが一番なんだぞ!」
暗幕の切れ端を抱えて、アルフレッドが笑っていた。
まぶしいよ、ばかぁ。
そう思ったものの、口にすることはせず、アーサーは光の射した美術室を見渡した。こうやって見るといたるところ
埃がたまっていて、なんて不健康なところで作業をしていたんだと思った。
ガッ、ガッ、と鈍い音がすると思えば、アルフレッドが錆びついた窓のかぎを開けようと奮闘していた。
ガッ、ガッ、ガツッ
ようやく開いた窓を勢いよく開け放つ。初夏の薫りが埃っぽい美術室に吹き込んできた。
アーサーはその風につられるようにカンバスに目を移して、息をのんだ。
天啓を、受けた気がした。
「アルフレッド」
「ん?何だい?」
「スカウト、受けてやるよ。お前が映画を作るときには、俺を呼べ」
気付けばそう告げていた。アルフレッドが驚いたような顔を作って、それはすぐに満面の笑みに代わった。
「Thanks!」
光の射しこんだ美術室。
光を受けて輝く“彼女”の完璧な姿を、そこに見た。
アーサーはパソコンを起動させると、メールボックスを起動させた。新着メールの大半が仕事の依頼だ。
2年前、“彼女”は米国内でも著名なコンクールで優勝した。退学さえ覚悟したはずの大学は、気づけば首席で
卒業していた。
“彼女”以降に描いた絵もそこそこの値段で売れていて、今やアーサーは期待の新鋭だった。今は油絵を描きつ
つ、美術助手なども務めている。
アートディレクターの依頼もいくつかあった。今のところ、すべて断っている。
あの時の約束が何になるのだと依頼を断るたびに思う。それでも、他の仕事をしているときに彼が映画を作ろうと
言ってきたら困るからと、そんな理由でアーサーはあったかもしれない栄光を棒に振り続けている。
驚くべきことに、結局アルフレッドと会話をしたのはあの日だけなのだ。“彼女”が賞を受賞した時も、アーサーが
大学を卒業する時も、アルフレッドはアーサーの前には現れなかった。
いつ来るとも分からない連絡を待ち続けて、まるで恋人の帰りを待つ女の様だと思う。そして、きっとその例えは
間違っていない。
光に縁取られたあの日のアルフレッドの姿が今でも脳裏から離れない。この感情は、確かに恋と呼べるものだっ
た。
ざっとメールを眺める。
メ−ルボックスの中に見つけた名前に、心臓が止まるかと思った。
「Alfred F Jones」
同姓同名の別人かも。アルフレッド・F・ジョーンズなんてそこまで珍しい名前じゃない。
震える手でマウスを操作して、メールを開いた。
やあ、アーサー。
最近はいろんなところから引っ張りだこらしいね。
まあ、君の一番最初のファンは俺なんだから、そこんとこ忘れないでくれよ。
あの時の約束はまだ有効かい?
やっと映画が作れることになったんだ。
菊やフランシス、ヴァルガス兄弟とも連絡を取り合ってる。
あとは君だけだよ、アーサー。
いい返事を待ってる。
アルフレッド・F・ジョーンズ
歓喜に心が躍る。叫びだしたいのを必死にこらえた。
返信用の新規メールを作る。
答えはあの時と変わってはいないが、
遅ぇんだよ、ばかぁ
そう書き出した。
かっとなって書いた大学生パロです。美大は行ったことないのでいろいろ適当です。
いくら邪魔だからって絵を処分したりはしないよ……多分……
あと映画大学と芸術大学を併合させたのにも無理があるよ……
雰囲気小説ですみません……
でも書いててとても楽しかったです。 (07/08)