Come back to...

暗い暗い世界の果てに生まれ落ちてしまった幼子に、一つだけのろいをかけた。
どうかどうか、この子が一人にならぬようにと。





「ただいまっ」

アルフレッドは息を切らせて家に飛び込んだ。背負っていたカバンを玄関に放り出し、素早く身をひるがえす。

「いってきまーす!」
「あらあら、もう出かけるの?」

そのまま家を飛び出そうとしたアルフレッドを引き留めたのは、家の奥から出てきた母だった。

「友達と公園で野球をやるんだよ、ママ」

むぅと頬を膨らませてアルフレッドは母を見上げた。10歳の少年がするにはやや幼いしぐさだったが、周囲よりもやや発育の遅い小柄な体躯ならばそれもひどく様になる。

「遊びに行くって、あなた勉強は大丈夫なの?」
「大丈夫だって。ねぇ、まだ何かあるの?」

大丈夫と言いつつも、実際のところアルフレッドはあまり頭のよろしくない部類に入る。成績も下から数えたほうが楽とまでは言わないが、半分より下であることは確かだ。
勉強はからきしだが運動神経だけはよい、なんてこともなく、やはり平均かそれより劣る。それでも、それらを補って余りある天真爛漫な性格は彼を友人たちの中心に据えていた。

「もういいわ。遊んでらっしゃい。暗くなる前に帰ってくるのよ」
「わかってるよ、ママ。じゃあ行ってきます!」

遊びに行きたそうにうずうずしているアルフレッドに母親がため息交じりに許可を出す。ようやく降りた許可にアルフレッドは顔をきらきらと輝かせて家を飛び出していった。



家の前の庭を駆け抜け、公道へと飛び出す。あまりに勢いが付きすぎていたために、公道を歩いてきた人とぶつかりかけた。

「あわわっ、ごめんなさい」

とっさに謝ったが、顔を上げたことでアルフレッドはようやくその人影が誰かであるかに気付いた。

「アーサー!! お帰りなさい!」
「ただいま、アルフレッド。どこか出かけるのか?」

それはアルフレッドの4つ年上の兄であるアーサーだった。アルフレッドと違い名門私立の受験を勧められるような秀才で、今通っている公立校でも生徒会から何度もスカウトを受けているらしい。受験の勧めも生徒会からのスカウトも、家に帰る時間が遅くなるという理由で蹴る程度には家族思い、いや弟思いの兄ではあるが。

「友達と野球しに行くんだ」
「そっか、怪我しないように気を付けるんだぞ」
「大丈夫だって。アーサーは心配性だなぁ」

アーサーの手がくしゃくしゃとアルフレッドの髪をなでる。そのしぐさが心地よいのか、アルフレッドは目を細めて笑った。

「でも遊んでばっかで勉強は大丈夫なのか、お前」
「それママにも言われた。ねぇ、アーサー、今度算数教えてくれよ。どうしてもわからないところがあるんだ」
「しかたねぇな。じゃあ、今日の夜でもいいか?」
「やった。早く帰ってくるね! 行ってきます!」
「おう、行って来い」

アーサーに見送られて、アルフレッドは公園までの道をパタパタと走って行った。




太陽も沈みかけた夕暮れ時。
アルフレッドは公園へ向かった時と同じ軽い足取りで家へと急いでいた。
今日の野球も、ボールは思った方向に投げられないし、バットにもなかなか当たってくれなかったけれど、学校の友達たちと体を動かすのは楽しかった。相変わらず下手だなぁと笑われても、自覚していることなので特に腹も立たない。それに今度の休みにはアーサーとキャッチボールの約束をしていた。絶対にうまくなって、彼らをぎゃふんと言わせてやるのだ。

家に帰れば温かい夕食が待っている。ちょっと口うるさいけれど優しい母はとても料理上手だ。今日は父も早く帰ってくるといっていたから、両親と兄と妹と、久々に5人で食卓を囲める。
今日の晩御飯はなんだろうと想像しながら赤く染まった街並みを駆ける時間がアルフレッドは好きだった。


ようやくたどり着いた我が家。けれど、何かがおかしい。庭に足を踏み入れる前からそれがひしひしと伝わってきた。
だって、こんな時間なのにリビングの明かりがついてない。
周りの家々の窓からはすでにほの暖かい光が漏れていて、沈黙を保つ我が家が異常であることを示している。

入りたくない。

帰る場所であるはずのそこがひどく恐ろしい場所に見えて、アルフレッドは庭と公道を隔てる柵の前でただただ立ち尽くしていた。

そうしている間にも夜のとばりは降りる。急速に闇が迫る。

一向に明かりの点らない家と、迫る闇と、選択を迫られてアルフレッドは家へと逃げ込んだ。
幼い時からどうしても暗がりが苦手だった。向こう側に引きずりこまれてしまいそうな深淵が広がっているような気がして。あちら側にはもう行きたくないと本能が訴えるのだ。


踏み込んだ家は、全く知らない場所のようだった。
暗く湿っていて、なぜか魚のような臭いがする。

「アーサー? ママ? エミリー?」

呼びかけても返事はない。もしかして何か事件に巻き込まれたのだろうか。
ああ、それならば警察に連絡をしないと。
ふらつく足を叱咤してリビングに向かう。固定電話があるのはそこだけだ。
生臭いにおいが強くなる。
誰もいないはずの暗いリビングからは、かすかに物音がした。

恐る恐るドアノブに手を当てて、音をたてないようにそっと引く。
暗く沈んだリビングで、何かがうごめいていた。

「エミリー?」

思わず妹の名を呼んだのは、その小さな影に該当する人物が彼女くらいしか思い浮かばなかったからだ。
だがすぐにその判断は誤りだったと知る。

かさ、とアルフレッドの声に反応して動いたそれは、

「あ、あ、あ、、、」

関節の多い6本足と、赤く光る眼をしていた。
獣とも虫ともつかない体つきながら、その頭部はやたらと人間じみている。
朱色の肌に比率のおかしい目。唇のない口元が、アルフレッドを見てニタァと弧を描いた。

「うわぁああぁあぁああああぁあ――――!」

逃げ出したかった。けれど足が言うことを聞かない。動転して腰をついたアルフレッドにその生き物がかさかさと這いよった。
吐き気を催す臭いが迫る。魚の臭いなんかじゃない、この臭いは、

「血ぃ、ぇ、っ」

よくよく見れば化け物の肌は朱色などではなく、鮮血に濡れているのだと知る。誰の血だ。考えなくてもわかる。化け物に踏みにじられていたのは、他でもない妹のからだ。お気に入りだといっていたワンピースは引き裂かれ見る影もない。今もその体は解放されることなく、アルフレッドににじり寄る化け物よりも小型の何かに貪られていた。
ぼろ、と大粒の涙がアルフレッドの瞳からこぼれた。うぇ、と言葉にならない呻きが唇から洩れる。

「エミ、リィ、ぇ、う、」

妹の名を呼んで、はたと気づく。母は、父は、アーサー、は。

「アーサー、アーサー! どこ?! アーサー!!」

もう頼れるのは兄しかいなかった。もつれる足に力を込めて駆けだす。背後からかさかさという音が追ってきてはいたが、あまり本気でアルフレッドを捕らえるつもりはないようだ。だがそんなことにさえも気が回らず、アルフレッドはひたすらに走った。
どこを目指しているのか、何から逃げているのか、わからなくなる。
一般的な大きさのはずの家が、やたらと広く感じられた。

「アーサー! アー、うわっ??!」

めちゃくちゃに名前を呼び叫びながら走っていると、何かに躓いて盛大に転んだ。顔面から床にたたきつけられれば、びしゃりと不快な液体が跳ねた。鉄錆の臭いと味が口内に広がる。
恐る恐る振り向けば、廊下を塞いでいたのは母のからだだった。うつぶせに倒れており顔は見えなかったが、ぽっかりと空いた背中の穴と薄すぎる体はその人がもう二度と笑いかけてはくれないのだと悟らせるのに十分な証拠だった。
この死骸に泣き付いて助けが来るのを待てばいいのだろうか。そんな考えが頭をよぎっても、それを実行することはかなわないことを知っていた。

目の前には二階へと続く階段がある。両親の寝室と、兄と自分に与えられた部屋のある二階。
ここを登れば兄がいるのだろうか。それとも兄だった死体がいるのだろうか。
見上げた二階は闇の中に沈んでいて、何が潜んでいるのか見当もつかない。

行きたくない。けれど、行かなくては。

ずるずると体を引きずりながら階段を這い上がる。階段に点々とついた血痕は、見ないことにした。
ようやくたどり着いた二階は、やはり闇が占拠していた。一つだけ開け放たれたドアがある。アーサーの部屋だ。アーサーとは同じ部屋を使っているからそこはアルフレッドの部屋でもあったが、自分の部屋である実感が今ばかりはわかなかった。
血痕もやはり、その扉の奥へと続いている。

「アー、サー? いるの……?」

脳裏に浮かぶのは妹や母のように変わり果てた姿で横たわるアーサーだ。その残像を必死に振り払って、ドアの向こうを覗き込む。

「来るな、アルフレッド!!」

部屋の奥から飛んできた声にアルフレッドはぴしりと体を固めた。アーサーの声だ! もしかしたらもう二度と聞けないかもしれないと思っていた声に胸がいっぱいになる。制止など頭から抜け落ちて、アルフレッドは部屋へと踏み込んだ。

そこはもはや自分の部屋でなく、そもそもこの世にあるどの場所でもなくなっていた。

どろりとした粘着質の闇が部屋を満たしていて、床からはタールに似た何かがごぽごぽと噴出している。
いやだ、いやだ、いやだ、この空間は嫌だ、もう行きたくない、もう戻りたくない。
足はすくむのに、目は必至でアーサーを探していた。あのくすんだ金髪が見れたら何も怖いものはないような気がするのに、一向に見つからない。

「これはこれはアルフレッド様、ようやくお帰りですか?」

知らない声だった。ぎぎぎ、と体を軋ませて声のしたほうを見れば、やはり見知らぬ男が立っていた。今日この家に帰ってきてから初めて見る生身の人間だった。いや、人間とは呼べないかもしれない。人間には角も翼も尾も生えてはいない。けれど、自分は何か近いものを知っている気がした。

「だ、れ、……?」
「名乗るほどのものではありません。私は貴方様をお迎えに上がっただけなのですから」
「迎えって、なに、アーサーは、どこにいるの」

そう、思い出した。悪魔だ。怜悧な美貌を備えた、地下世界の住人。
アルフレッドの震える声に、悪魔がうっそりと笑う。

「アーサー? ああ、あの愚か者でしたら、ほらあそこに」

黒く塗られた長い爪が指示した先には、満身創痍の男が倒れていた。赤い髪がばらばらと無残に床に広がっている。
それは、14の少年のものではない。しっかりとした成人男性のものだ。
けれどその面差しは寒気を感じるほどにアーサーと似通っている。

「っ、アーサーっ!」
「おっと、」

その男に取りすがろうとしたアルフレッドを悪魔が引き止める。触れた肌は蛇のように温度がなかった。

「どうかお近づきになられませんよう。御身が穢れます」
「はなせっ、アーサー、起きてよ、ねぇ! アーサー!!」

先ほどの制止は間違いなくアーサーの声だった。少なくとも死んではいないはずだ。もうすぐ、息をしなくなる可能性は大いにあり得たけれど。
アルフレッドの声に男がわずかに身じろぐ。思わずほ、とため息が漏れた。 その頭上で悪魔もまた、ため息をついた。

「なぜあのような低級悪魔に執心なされるのですか。あれは貴方様をかどわかしたというのに」
「かどわか、し?」
「ええ、まだ赤子だった貴方様をさらい、だまし、利用しようと企んだのは他でもないあの男ですよ」

悪魔が身をかがめ、凍った声をアルフレッドの耳元に落とす。

「騙してたって、どういうこと、アーサー……」

かすれた声でアルフレッドが問いかける。
ああ、言われてみればそうだ、あの姿だってそうじゃないか。14の少年の皮をかぶっていたのは、角と翼と尾をもつ赤毛の悪魔だった。

「違う、アル、違うんだ……」
「この期に及んで否定ですか。あなたらしい3枚舌だ。兄という一番アルフレッド様を傀儡にしやすい立場をとりながら今更何を」
「ねえ、アーサー、全部嘘だったの……? 今日は算数の勉強見てくれるって言ったじゃないか。週末のキャッチボールは? 誕生日にケーキ焼いてくれるって言ったのは? 全部嘘? ねぇ、」

ぼろぼろとこぼれる涙を両手で必死にぬぐいながら叫ぶアルフレッドを悪魔はいつくしむような瞳で見つめていた。

「さあ、わかったでしょう。あれは裏切り者だ。貴方様のあるべき場所はこちら」

甘く悪魔がささやく。
長い爪を備えた指先で優しくアルフレッドの瞳にたまった涙をぬぐい、そのままアルフレッドの前に跪く。

「参りましょう。アルフレッド様。お迎えが遅くなりましたことをどうかその寛大なお心でお許しください。我等が夜の王よ」

伸ばされた手を取ることもできるはずがなく、アルフレッドはただただ立ち尽くした。さまよう瞳はやがて倒れ伏す男へと向かう。
騙されていたと知っても、10年間の記憶が彼に縋ってしまう。
だがその助けを乞う瞳に逸早く気付いたのは長年兄と慕ったその人ではなく、アルフレッドに手を差し出した悪魔だった。アルフレッドの瞳を追い、ああ、と納得したような吐息を漏らす。

「あれを始末するのを忘れていましたね。見苦しいものをお見せしてしまって申し訳ありません。すぐに済みますので」

冷たい微笑の元に手を振りかざした悪魔にアルフレッドはあわてて縋り付いた。

「だめっ!」
「いくら貴方様の願いといえど聞き入れることはできません。裏切り者には、制裁を加えなくては」
「やめて、やめてよ。やめてったら」

アルフレッドの懇願もむなしく、悪魔の手のひらには妖しげな光が集まっていく。
裏切られた胸はひどく傷むが、死んでほしいなどとは思っていないのだ。その感情が偽りであれ、共に過ごした歳月は真実なのだから。その人をあいしたこの心は、変わらない。

「やめろって、」

ぱちぱちとアルフレッドの周りで火花が爆ぜる。柔らかな蜂蜜色の髪が風に煽られたかのように揺れた。
青い瞳が焔を宿す。喉の奥が灼熱を呑んだように痛んだ。
だめだ、と制止の声が飛ぶ。それはお前を一人にしてしまうからと。アーサーの声だ、と理解しつつもアルフレッドは止まる気などさらさら持ち合わせていなかった。

「言ってるだろ―――!!!」

慟哭とともに爆風が吹き荒れる。風に揺れた髪は一瞬で漆黒に塗りつぶされていく。
ようやく風が収まった時、その空間からアーサーの姿は掻き消えていた。

「ははっ、流石ですね。枷をはめられた状態でこれとは……」

悪魔があっけにとられた声で笑う。

「咄嗟に異界に飛ばしましたか。これは探すのに骨が折れそうだ」
「あの人に手出しをしたら許さない」

低く地を噛むような声でアルフレッドが悪魔をにらむ。その瞳を受け、悪魔は愉快そうに笑んだ。今までのような美しく取り繕った笑みではない。これこそ悪魔の笑みにふさわしい、底冷えのする魔性の笑み。

「貴方様が望むのならばあのような小者は放っておきましょう。その対価として差し出すものは、もう理解しているのでしょう?」
「戻ればいいんだろう。向こうに。だけど代わりにあの人には絶対に危害を加えるな。動向を監視するのも、行動を制限するのも、悪評を広めるのも、俺を使って脅すのも、他人を使って間接的に危害を加えるのも、全部禁止する」

言葉の裏をかかれないように事細かに指示を出したアルフレッドに悪魔は今にも舌打ちをしそうな表情でうなずいた。

「ではまいりましょうか。誰もが貴方様をお待ちです」
「手なんて取ってもらわなくても大丈夫だよ」

差し出された手をアルフレッドは冷めた瞳で振り払った。
先ほどまで顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっていた子供の面影はすでになく、天使と称されたこともある端正な顔を無表情の仮面で覆い、少年はか細い足で確かに独り立っていた。
その背に黒く大きな翼が広がる。黒く染まった髪の合間からは山羊のそれに似た巻角がのぞき、長い尾がぴしゃりと大地を打った。

ぐにゃりと空間がゆがみ、魔界の深層部につながる道が開く。
その深淵へとアルフレッドは臆することなく踏み込んだ。



それが人間界の歳月にして10年ぶりの、夜を統べる魔王の帰還だった。











pixivに新刊詐欺としてUPしたものですが、結構気に入っているのでこっちにも。(pixiv掲載05/01 サイト掲載05/07)