羽撃く翼は光を纏う

相変らずのモブ、グロ注意報。









そこには、風の止まぬ谷があるという。





吹き荒れる風は、もはや凶器に等しい。
体重の軽い者ならば容易く吹き飛ばせてしまいそうな風圧もさることながら、その風が巻きあげるものが危険なのだ。
砂、小石、木の葉程度ならばまだ可愛い方で、強すぎる風は握り拳大の石や人の腕ほどもある枝までも宙に舞いあげ、踊らせる。

もしそんな風の中を通ろうとするものがあるならば……それは自殺行為以外の何物でもないだろう。
どこからどの方向へ吹くか予測不可能な風は容易くその足場を乱し、宙に踊る様々な物体は礫となって降り注ぐ。

そんな死地へと人が足を向ける理由があるとすれば、それは――






砂嵐のせいで視界は絶不調だった。
いや、そもそもこの視界を遮るものを砂嵐と呼んでいいのか。悩みどころだった。
先程などはマントが飛んできた。重たい布でさえこの暴風の中で凶器になりうる。

ごうごうと吹き荒れる風と、それに煽られてバサバサとはためくマント以外に鼓膜を震わせる音はなく、フードを目深にかぶって俯いた状態では視界も極端に限られる。
人間には五感があるが、周囲の情報を多く伝えてくれるのは視覚と聴覚くらいだろう。触覚は触ったものやごく近くのものにしか反応できないし、嗅覚や味覚だって同様だ。
まあ、何が言いたいかと言えば、聴覚と視覚が使い物にならないこの状況が、とてつもなく不安なだけ。


ほとんど自分の足しか見えていないような視界を動かして周囲を探る。
鈍い色をした地面しか目に入らない。あるべきものがない。
思わず顔をあげて周囲を見回す。砂嵐が容赦なく肌を打ったが、気にとめることはできなかった。
焦燥に駆られてさまざまな方向に視界を滑らせたが、どこを見ても傍にあるはずのそれが映らない。
ああ、まさか逸れたのだろうか。この、砂嵐の中で。

「アルフレッド!」

風の轟音に負けないよう声を張り上げる。大きく開いた口に細かい砂が滑り込んだ。
でもまだ駄目だ。まだ小さい。これでは風の音に負けてしまう。
ざらつく口内を唾液で湿らせて、また声を張り上げた。

「アルフレッド! アル! どこだ!」

ゴホ、と咳きこむ。喉に張り付いた砂が酷く不快だった。
もう一度叫ぼうと大きく息を吸って、

無防備だった腕を掴まれた。

「ここだよ、アーサー」

はっと振り返ると探していた人影が視界に飛び込んできた。
鈍色のフードからわずかに覗いた青色に安堵する。

アルフレッドがぐい、とアーサーを引き寄せた。砂嵐によって眇められた青色が近くなる。
アーサーが口を開く前に、アルフレッドはすばやくその手首に紐を結びつけた。その紐を辿れば、アルフレッドの手首へとたどり着く。

「だから最初からこうしておこうって言ったのに」

はぐれないようにと互いの手首を紐で繋ぐことを提案したのはアルフレッドで、それを断固拒否したのはアーサーだった。
緊急事態の際の対応が遅れるし、どちらかが転んだときにもう片方も巻き添えを食うし、と、彼お得意のよく回る口でアルフレッドを説き伏せたのは1時間ほど前のこと。

「変な意地張らないでくれよ、まったくもう」

行くよ、と腕を引かれてアーサーはのろのろと歩き出した。



風はやまない。
むしろ、中心部に近づけば近づくほど風の勢いは強くなるばかりだ。
自然の作りだした風ではない。これは、人為的な風だ。
アーサーは渦巻く風の向こうを睨んだ。これほどの風が吹き荒れているというのに風の精霊の気配は一切ない。自然物の精霊の力を借りて魔術を行使する彼にとって、その存在の不在は腹の奥をざわつかせるものであった。

「厭な風。澱んでる」

アルフレッドがそう呟いたのが、アーサーの耳にも届いた。

「いったん引き返した方がいいかも――っ!」

低くアーサーにささやいていたアルフレッドの声がふいに途切れる。
息を詰める音の後に、絶叫。

「アーサー!!」

その声に呼応するように、風が吹き荒れた。

誰かの意図の絡む風は、アーサーとアルフレッドの身体を容易く巻きあげる。二人を引き離すような気配を感じて、アルフレッドはアーサーに向かって手を伸ばした。
アーサーもそれに気付いてか、腕を限界まで伸ばす。紐が手首に食い込むが、気にしている余裕はない。

「アル!」

伸ばした指先同士が掠めたその瞬間に、ぶつりと二人をつなぐ糸が断ち切られた。
一際強い風が吹いて、お互いに違う方向へと吹き飛ばされる。あっという間に相手の姿が視界から消えた。





身を切るような暴風の中でアルフレッドは小さく舌打った。すばやくその身を鷲の姿へと変える。
巨大な翼を広げ、風を捕まえるのは容易いことに思われた。

だが。

風はその瞬間を待っていたとばかりに鳥の体を巻き上げた。風を操る為の翼が、風に捕われ、煽られ、翻弄される。

憐れな鳥は風にもみくちゃにされ、ついには地へと叩きつけられた。

ベシャリ、とみっともない音を立てて落下したのは、先程まで歩いていた砂塵の舞う荒地ではなく、冷たく滑らかな床の上だった。

「ぃったぁ……」

アルフレッドが低くうめく。
骨こそ折れていなかったが、体中痣だらけだろう。人へと姿を変えて起き上がる。強く打った左肩をぐるぐると回して調子を確かめた。特に異常はないようだ。思わず安堵のため息をついた。

「ここ、どこだろ……」

見上げれば、高い天井。おかしい。
自分たちは確かに外を歩いていたはずだし、この部屋には、いや、この広間には窓らしきものはない。
やっぱり魔術か、とアルフレッドは唇を噛んだ。
油断していた? いや、それよりも。

「なんか、久々だなぁ、こういうの……」

流石にもうないと思っていた、というのはやはり油断だろうか。
大袈裟にため息をついて、アルフレッドは天井に向かって大きく独り言ちた。

「歓迎するつもりならもっと手厚く出迎えてくれないかい?」

独り言にしては大きすぎるそれは、独り言に見せかけた問いかけであるからだ。
それに応えるようにアルフレッドの背でくすりと笑う気配がした。
振り向けばいつの間にか背後には、ゆったりとした道衣に身を包んだ男が立っていた。

「手荒な真似をしてすまないね。どうしてもあの魔道士とは引き離したかったから」

やや癖のある落ち葉色の髪に、グレイの瞳。柔和な表情を作る男は存外若々しかった。
にこりと笑う仕草は屈託がないように見えて、それでいてどこか仄暗い。

「やっぱり目的は俺の方かい?」

この状態でもう一方が、アーサーが目的である確率は低かったが、口に出さずには居られなかった。表舞台から姿を消してから久しいはずの彼は、未だに多くの恨みを買っているらしい。
旅の中でも彼に関する私怨からトラブルが発生したことは数えきれない。

だが、今回は彼が原因ではないようだ。
笑みを深めた男にアルフレッドはそれを確信した。

「ああ。そのためにこの谷も用意した。どうだい? 素晴らしい風の巣だろう?」
「さぁ? 俺にはよくわからないよ。俺は宿なしの渡りだからね」
「そろそろどこかに腰を落ち着ける気は?」
「…………」

胡乱気に男を見上げ、アルフレッドは眉をひそめた。

「ああ、すまない。こんなところで話す話題ではなかったね。奥に食事が用意してあるんだ。おいで」

男が手招く。
アルフレッドは溜息をつきその後を追った。



男はサヴェーリと名乗った。
サヴェーリの言った通り、案内された先には20人は優に掛けられそうな長卓が置かれ、その上には所狭しと豪勢な料理が並べられていた。
このような状況下ながらアルフレッドの目がわずかに輝く。草を枕にする生活が続く中では贅沢な食事はなかなかできない。

「さあ、好きなだけ食べるといい」
「毒入りか何かかい?」
「まさか! 君にそんなことはしないさ」

サヴェーリが可笑しそうに笑う。卓に乗った料理を行儀悪く指でつまみ、口に運んだ。

「うん、やっぱりうちの料理人は腕がいい」

指についたタレを舐めとり、サヴェーリは自分がつまんだ料理の皿をアルフレッドに差し出した。

「君に毒を盛るメリットが僕にはないよ。そもそも、君にどんな毒が効くかもわからないしね」
「…………」
「納得してくれたかな? 冷めてしまっては味も落ちる。早く食べてくれるとうれしいな。君が食べてくれないと全部処分しなければならなくなってしまうし」

にこにこと相貌を崩さないサヴェーリに逃げ場がないことを悟ったのか、アルフレッドはため息とともに「いただくよ」と長卓についた。



「で、俺に何の用だい?」

先ほどまでのためらいが嘘のように食事を次々と胃の中に収めていくアルフレッドが、ふと思い出したように、けれど食事の手を止めることなくサヴェーリに問いかけた。

「さっきも言ったろう? そろそろどこかに腰を落ち着ける気はないかい?」

アルフレッドが食事の手を止める。ゆっくりと瞳を持ち上げ、その青色でサヴェーリを射抜いた。そこにあるのは驚愕でも困惑でも嫌悪でもない。
きゅぅ、と瞳孔が細くなる。それを彩る青は何よりも透明な色合いをしていた。
人よりも獣の気配が強くなる。

「それは……君が俺の奏者になるってことかい?」
「そう解釈してくれて構わない」
「…………」

アルフレッドが目を眇めた。品定めをするような目だ。その視線を受けてもなおサヴェーリは笑みを崩さない。アルフレッドはどこかつまらなそうに視線を遠くへと投げかけた。

「渇くんだよ」

静かに、淡々と。
ひとり呟くように。

「いくら注いでも満たされない。それが、君に充たせるかい?」

反応をうかがうように小首を傾げ、アルフレッドはサヴェーリを流し見た。

「それくらいの自負はあるつもりだよ。だからこそ君をここに招いたのだから」
「そう……俺としてはね、誰だっていいんだよ」

この飢えを、この渇きを癒せるものなら。
やれるものならやってみればいいと、獣は目を細めて嗤った。





アーサーが叩きつけられたのは渓谷のはずれに近い岩場だった。
激突の寸前に咄嗟に風を操って衝撃を緩和させたため大きな怪我はないが、暴風に振り回されたことによる悪心はどうしようもなく、アーサーは大岩に伏したまま動くことができなかった。

ふらつく頭を持ち上げて周囲を探してみてもアルフレッドの姿はどこにもない。
やはり引き離されたか、と舌打ちをした。
風に阻まれた谷。そこに牙城を構えるのは風に所縁のあるものに違いなく、ならばその狙いがアルフレッドである可能性も、容易に想像できただろうに。
アーサーは己の不注意を呪った。

風をつかさどる、金の大鷲。
その獣を使役するものは世界を揺らがしうる力と富を手に入れるという。

所詮は伝説だ。それを真に受ける者など、正統派魔術の廃れた今には存在しないと思い込んでいた。
アーサー自身、建国の神話と並ぶほどに古い伝承をかき集め、彼と出会った。
同じ考えを持ち、同じ行動をする者はいないと、どうしてそう思いこめていたのだろう。

とにかくアルフレッドと合流しなくては、とアーサーはよろよろと立ちあがった。まだぐらぐらと揺れている頭を押さえ、アーサーは谷底を睨んだ。砂嵐に霞んで底は見えないが、アルフレッドの居場所は間違いなくあそこだろう。
だが、底に向かおうとすれば先ほどと同じように風に阻まれることなど目に見えていた。

「少し面倒だが……」

瞳を閉じて呼吸を整える。
呼びかけるのはこの谷の環境を作り出すために封印された風の精と、谷に流れ込むことのできない風の精たちだ。
個々から借りることのできる力は少ないが、風の精は数が多い。

やがて清浄な空気がアーサーの周囲をゆったりと渦巻き始めた。
褪せた色合いの髪を、砂で汚れた頬を、風が撫でるように吹き抜けてゆく。

「時を廻る風の徒よ、我が往く道を示せ!」

アーサーの声に従い、彼を取り巻いていた風たちは一斉に谷底めがけて吹き抜けた。谷に澱む風が引き裂かれ、一筋の道が走る。

最果てに屋敷が見えた。

屋敷へと一直線に伸びる風の裂け目を、アーサーは跳ぶように駆け下りた。
一瞬の風の切れ間は、アーサーが通った直後に暴風に呑まれていく。道の持続時間は長くない。
風に追いつかれてしまえば、またふりだしに逆戻りだ。いや、今度こそ生きてはいないかもしれない。

駆ける、駆ける、駆ける。

目前には閉ざされた巨大な扉が迫っていた。その前には不可視の結界も待ち構えている。
アーサーは扉めがけて大きく跳躍した。




爆音とともに扉が崩れ落ちる。
その向こうから飛び込んできた人影はホールに危なげなく着地した。
ぱらぱらと降り注ぐ元は扉だった塵を払い、アーサーはホールを見回した。

吹き抜けのホールから粉塵が消えた後、正面に設けられた大階段の上には道衣姿の男――サヴェーリが立っていた。

「主人の許可もなしに扉を壊して侵入するのが君の礼儀かい?」

その声はホールによく響いた。

「谷に許可もなく住み着いてるような奴に払う礼儀は持ち合わせてねぇよ」

サヴェーリを一蹴するアーサーの声もまた、反響してホールを満たす。

「うちの迷子を預かってもらっていたようだから回収に来た。さっさと返してもらおうか」
「“返す”? まるで彼が所有物のような言い草だね。どう思う、ツァーリ」

サヴェーリが呼びかけたのは、その腕で羽を休める大鷲だった。アーサーにとっては見覚えがあるでは済まされない。アーサーの頬がわずかに引きつる。
一方の鳥は興味がないと言わんばかりにその特徴的な青色の目を伏せている。

「ツァーリ?」

アーサーは聞き慣れないその名前を復唱した。その声は大気に溶けることなく反響し、サヴェーリの耳まで届く。

「ああ。俗世にまみれた名よりずっとふさわしいだろう?」
「ツァーリ、か。確か北方の言葉で“皇帝”、だったな。ずいぶんと大それた名前をつけたな」
「大それた? まさか! 皇帝さえも役不足だ。一時とはいえ彼を使役していたのだから、君だってそれは知っているだろう」

心酔しきった声だ、とアーサーは露骨に眉を細めた。どうせあの場所からでは表情までは読めまい。

「いや、間違ってもそんな仰々しいもんじゃねぇな。ただの大飯食らいのメタボだろ」
「……やはり君は彼の奏者に相応しい人間ではなかったようだ。なぜツァーリも君のような無知な魔道師に使役されていたのか」
「さあな。その腕にいるやつに聞いてみろよ」

興味がないと言わんばかりに首の後ろをかきながらアーサーはそう吐き捨てた。

「“お前に渇きが癒せるのか”」

書の一節を諳んじるように謳う。

「お前は、何と答えた?」
「もちろん、“是”と」
「そうか。……なら俺はもう帰らせてもらおう。そいつが帰ってこようとしないなら、もうここに用はない」

その一瞬の前にどんな思考を巡らせたのだろう、アーサーの表情に変化は見られなかった。
最後にサヴェーリの腕に止まる鳥をほんの一瞬だけ一瞥し、アーサーは砂色の外套をひるがえした。

だが、

「帰れると思っているのかい?」

サヴェーリの笑みを含んだ声が響いた。

屋敷の外は暴風が吹き荒れている。
谷の入り口近くならばともかく、最奥となってしまえば風の精を呼び出すこともかなわない。
アーサーはため息をついてホールへと向き直った。

「どうやら帰れそうにないらしい」
「ああ、君にはここで死んでもらいたい」
「お前の目的はそいつだったんだろう。俺はもう関係ない」
「そう思っているのは君だけだよ。それに……ツァーリの力も試してみたい。元奏者ならば相手に不足はないだろう?」

うっそりと微笑み、サヴェーリは鷲を乗せた腕を差し出した。

「さあ、ツァーリ、君の力を見せてくれ」

その声に応えるように鷲が飛び立つ。
ホールの中央へと降り立った鷲は着地の寸前に人へと姿を変えた。金の髪が揺れる。

「よぉ、裏切り者」
「ひどい言い草だなぁ。誰だっていいんだって、いつも言ってきたじゃないか」

青年はニコリと邪気のない顔で笑う。
“渇きを癒せるものなら、だれでも”
その言葉は、知っている。けれど、そのあとに続く言葉も、アーサーは知っている。

「でも、まぁ」

ツァーリが、アルフレッドが瞳をすっと細めた。針のように細い瞳孔が好戦的に笑っている。

「君とは一度本気で戦ってみたかったんだ」
「はっ、あとで泣いてもしらねぇからな」

その言葉が合図であったように空気が張り詰める。
アーサーの背後で壊れた扉の残骸がゆらりと宙に浮いた。
腕を鞭のようにしならせて空を薙ぐ。

「撥ねろ!」

大小さまざまな形の瓦礫が、アルフレッド目がけて撥ね飛んだ。頭部や胸部を狙ったそれをアルフレッドは身を伏せてよける。
アーサーが高らかに叫んだのはその瞬間だった。

「爆ぜろ!」

瓦礫が爆発する。
逃げ場はなく、アルフレッドはたやすく爆風に呑まれた。床に叩き付けられたアルフレッドにアーサーはなおも追い打ちをかける。

「隆起せよ!」

滑らかに磨き上げられた床を突き破って岩の槍が牙を剥いた。
アルフレッドの身体が空中に投げ出される。だがその身体が再び地面に叩き付けられることはなかった。風が渦巻いてその体を支える。その周囲には一緒に巻き上げられた無数の礫が浮遊していた。

「んっとに、危ないなぁっ!」

一瞬の静止の後、礫が流星のようにアーサーに降り注ぐ。

アーサーはとっさに近くの瓦礫の陰に飛び込んだが、弾丸と同等の速度を持つそれは瓦礫をどんどん砕いて行っていた。ががががががっ、と床や瓦礫が礫に削られる音が響く中、アーサーは何とか声を張り上げた。

「制止せよ!」

礫が空中で制止する。
風がやみ、アルフレッドの身体を支えるものが消えた。
落下する身体は次の瞬間には滑空する鷲へと姿を変えている。
笛を吹き鳴らすような甲高い鳴き声が響いた。その羽ばたきから放たれた暴風が、瓦礫ごとアーサーを壁に叩き付ける。

瓦礫が粉々に粉砕されるほどの衝撃をその身に受けたアーサーは息を詰まらせて床へと崩れ落ちた。その身体めがけて鷲は炎で作られた球体を吐く。
迫る火の玉にアーサーは自分の近くで小さな爆発を起こし自身の身体を火の玉の弾道から弾き飛ばした。吹き飛ばされた体を空中で何とか立て直し、猫のごとく4つ足で着地する。
チリ、と髪の毛の先が焦げた。

ふらつくアーサーを次に襲ったのは刃のような風を翼にまとった鷲だった。その速度はとても常人がよけきれるものではない。
アーサーは先ほどと同じように爆発を起こして回避したが、わずかに威力が劣った。左肩を風が引き裂いていく。鮮血が噴出し、すれ違いざまに鷲の翼を汚した。

「ぅあ゛ぁっ」

アーサーが痛みをこらえるように左肩を握る。ゆらりとその身体が傾ぎ、アーサーは床に膝をついた。
空中に舞い戻った鷲は、とどめを刺すべくその翼に再度刃をまとう。甲高く鳴き叫ぶ声がホールを満たした。

うずくまるアーサーの心臓を一直線に狙い急降下した鷲は、だがその目標に達する直前に現れた大きな穴によって進路を阻まれた。
燃え盛る炎が穴の向こうで踊っている。さながら地獄の入り口だ。
そこに飛び込むことは危険であると本能的に察知した鷲は穴の直前でほぼ真上に進路を変えた。

間一髪で空に逃げ出すことに成功した鷲は、高い位置から見下ろすことでようやくその穴の正体を知る。

穴の向こうにあるのは炎などではなく。
それは真っ赤な血の色をした舌だった。

大きな犬の首がアーサーのうずくまる床のあたりから生え、飛び込んでくる鷲を食らおうと大口を開けていたのだ。
人の腕ほどの長さを持つ牙を剥きだして唸る獣は人など容易に丸呑みにできる大きさをしていた。

犬の首が宙の鷲を捕らえようと大きく空にかみつく。
ずるり、と犬の肩ほどまでが地面から現れた。まるでその身体が地中に埋まっているかのようだ。

だがそんなはずはないことを、犬の首の背後で床に手をつくアーサーが証明している。
その瞳は魔術発動時特有のどろりとした光を湛えていた。

「来たれ、ケルベロス!」

アーサーの叫びに犬の首が一際大きく吠えた。
大地から3つ首の妖犬が躍り出る。
3つの首がそれぞれ吐息の代わりに炎と雷と吹雪を吐きながら高く吠えた。

アーサーが手をついている床には、ところどころが掠れた円が描かれている。よく観察すれば、その線は揃えた4本の指で書き殴られたものであることが分かっただろう。塗料は彼の血。
恐らく痛みに蹲った際に、肩からの出血で汚れた指を利用して描いたのだろう。おそらく意図的だったであろう動作は、あまりにも自然すぎてその目的をだれにも悟らせることはなかった。


円環は穴、そして穴は入り口だ。
その作用を利用した典型として魔方陣が挙げられる。魔方陣の何よりの基盤は円であり、そこに複雑な図形を書きこんでいくことで座標の指定や、召喚する魔物の行動を制約することが可能になるのだ。
つまり、円を描くだけでもそれは魔方陣としても作用する。だがもし円以外になにも図形を書きこまず、一切の能力を陣に委託しないのであれば、本来魔方陣が担うはずの細やかな指示までも魔導師自身が行わなくてはならなくなる。魔導師の実力が大きく反映されるその方法は、もし失敗すれば召喚した魔物に逆に襲われてしまうこともあり得る危険なものだった。好き好んで扱う者はまずいない。

血で書き殴っただけの歪な円と、たった一つの命令だけで行使できるような術では、決してない。
まして今のアーサーは手負いの身である。本来召喚に必要な集中力も体力も相当削がれている。
それでも。そんな状況であっても彼は一級の魔道師としての実力を発揮する。
それがアーサー・カークランドという魔導師の一級たる由縁であり、彼自身のプライドでもあった。


妖犬のぎらぎらと血走った3対の目が宙を舞う鷲を睨む。
左の首が大きく吠え、鷲めがけて焔を吐いた。鷲は迫る炎をものともせずに潜り抜けて犬へと迫る。その鼻先を肉薄し、鋭い鉤爪で右目を抉り、鷲は犬の攻撃の届かない高さへと舞い戻った。

妖犬が絶叫する。
神経がつながっているのだろうか、他の2つの首も右の首に同調するように吠えた。
犬の巨躯が暴れる。焔が、雷が、吹雪が、予測不能な軌道を描いて鷲を狙ったが、鷲はわずかな隙間を塗ってすべての攻撃を回避しきった。

甲高い鳴き声とともに鷲の翼から風の刃が放たれる。
その数はアーサーを狙った時の比ではなかった。
無数の刃を前に、妖犬の巨大な体は逃げ場を持たなかった。

風の刃が犬の脇腹を裂き、耳を千切り、目を潰し、鼻を削ぎ、前脚の先を断つ。
のたうちまわる犬の絶叫がホールを揺らした。
その首をめがけて急降下する鷲は、断頭台の刃そのものだった。

ごとん、と中央の首が落ちた。
血が滝のように吹き出す。

すでに命から切り離されたはずの首が咆哮を上げ血の海の中をのたうちまわった。その口から吐かれるのはすでに雷と呼ぶにふさわしくはなく、パチパチとはじける火花がわずかに散っている。

「へえ、まだ死なないんだ」

その目前にアルフレッドが人の姿を取って着地した。
首はなお猛々しく吠える。
牙を剥きだし、アルフレッドを呑み込もうと大きく口を開けた。

「っと、!」

だがその顎をアルフレッドは片手で受け止めた。左手で上顎をつかみ、足で下顎を踏みつければ、犬はもはや顎を閉じることは叶わない。
アルフレッドの右手がつかんだのは犬の歯列の中でも一番鋭い犬歯だった。

形容できない鈍い音ともに犬歯が折れる。
犬が暴れだし、その顎が閉じる寸前にアルフレッドは後ろへと飛びずさった。
右手に握ったままだった牙を犬の眉間めがけて投げる。風の補助を受けたそれは違うことなく犬の頭蓋を割り、脳まで達した。
犬が目を見開く。その瞳は異様な速さで濁っていく。ごとり、と犬の首は今度こそ血の海に沈んだ。

アルフレッドは犬の首へと歩み寄り、牙を引き抜いた。
血を払うように一振りすれば、それは次の瞬間には大剣へと形を変えていた。風と雷がその刀身を渦巻いている。

「さあ、かかってきなよ」

犬を構えてアルフレッドは不敵に笑った。
首の一つを失った妖犬は簡単に挑発に乗る。怒り狂った方向を上げ、アルフレッドへと襲い掛かった。
大木のような前脚が振り下ろされる。
それをかいくぐり犬の腹の下に滑り込んだアルフレッドは、真上へと剣を振り上げた。固い腹筋に阻まれて剣が止まるが、アルフレッドは力ずくで刃を進めた。噴出した赤黒い血が顔に飛び散るが、気に留めるそぶりさえしない。

「――――――――っっ!!!」

犬が暴れた。その拍子に剣が腹筋に挟まる。咄嗟に剣を離すことができなかったアルフレッドは犬の身をよじる動きに翻弄されることになった。
やがてずるりと剣が抜け、アルフレッドの身体は宙へと放り出された。壁へと叩きつけ荒れる寸前で体をひねり、壁をけり上げた。
剣を上段で構え、犬の脳天を狙う。
襲い来る炎も吹雪も叩き切り、アルフレッドは右の首の鼻面へと着地した。だがそれを振り払おうと犬が首を上下させたことで、アルフレッドの身体は再び宙を舞った。

落下する身体を待ち構えているのは地獄の門。大きく開かれた犬の口だ。
鷲に姿を変えれば逃れることはたやすかっただろう。だがアルフレッドはその行動をとらなかった。
剣の切っ先を真下へと向け、犬の口内へと飛び込む。その喉の奥へと雷の渦巻く竜巻を叩きつけた。

犬の喉が爆ぜ、頭部が千切れ飛ぶ。
先ほどの首と異なり、その首は何度か床の上を跳ねた後動かなくなった。

ついに一つになってしまった首が猛る声を上げる。
血を周囲にまき散らしながら妖犬はがむしゃらにアルフレッドへ突進を仕掛けた。アルフレッドもまた、剣を構えて走り出す。

二つの線が交差した。
下から切り上げられたアルフレッドの剣が、犬の右足を切り落とす。
そのまま犬の背へと飛び乗ったアルフレッドは真下へと剣を突き刺した。力づくで柄まで刃を押し込めば妖犬は長く木霊する断末魔を上げて息絶えた。

巨体が倒れ、大地を揺らがす。
背骨の左側に深々と刺さった剣を引き抜いたアルフレッドはその血にまみれた剣先をアーサーへと向けた。

ケルベロスの召還中はその場を動くことができなかったのだろう、アーサーは先ほどと同じ位置で蹲っていた。
召喚には石を穿つような集中力が必要となる。彼が召喚師と名を馳せた時代であれば数体の魔物を駆使しながら自らも剣を握るような戦いができただろうが、彼はもはや召喚師ではなく、ましてやその足元に血だまりを作るような傷を負っている。

「チッ、まだ動けるのかよ」

アーサーが舌打ちをして、再び円上へと手をかざした。
また何か喚び出すつもりなのだろうかとアルフレッドが身構える。
だがその予想に反してアーサーの手はとぷりと円陣の中へと沈んだ。硬いはずの床石が、円陣の中でだけ水面と化したように波打つ。

アーサーが腕を引き抜きながら立ち上がる。
その手には銀に輝く細身の剣が握られていた。
アルフレッドの剣が力に任せて対象を叩き割ることに特化したものならば、アーサーの剣は一点を穿ち貫くことに特化したものだった。

「来いよ、相手してやる」

笑うその表情は、アルフレッドがいつも隣で見てきたものだった。正面から向けられたのは、これが初めて。
つられたように口角が上がる。ゾクゾクとした感覚が背筋を滑っていく。
争いの中に身を置いてもなかなか味わうことのない高揚がアルフレッドを満たしていった。

パキパキと薄氷が割れるような音がアルフレッドを取り巻く。
アルフレッドは衝動の任せるままに駆けだした。
剣先ががりごりと床に引っかかってもお構いなしだ。
妖犬の死体を飛び越え、アーサーへと迫る。


下からの斬撃がアーサーを襲う。
大振りのそれをアーサーは剣の鎬で受け止めた。
至近距離で視線が交差する。

アルフレッドが、歯をむき出して笑った。
アーサーも重い一撃に眉を顰めながらもその口角を崩すことはなかった。

だが。

がらん、と。

アルフレッドの手から剣が滑り落ちた。

「え、?」

上体が崩れる。無様に膝をつき、そのまま床へと倒れ伏す。

「なんっ、」

何度立ち上がろうと試みても体はピクリとも動かない。声を出すことさえ難しいのか、アルフレッドは眼だけでアーサーを睨んだ。何をした、と憎々しげな瞳が語っている。

「やっと時間切れか。意外にもったな」

アーサーが屈んでアルフレッドの顔を覗き込んだ。
何のことだとアルフレッドが目だけで訴える。

「ばかすか力使いすぎなんだよ、バーカ」

アーサーの手がアルフレッドの前髪を無造作につかんだ。本来は美しい稲穂色をしている金髪は、今は返り血でまだらに汚れている。
そのまま髪を引いてアルフレッドの頭を持ち上げる。あらわになる顔は悔しそうに歪んでいた。

「んな顔すんなって」

アーサーがアルフレッドの唇に自分のそれを押し付けた。むに、と音がしそうなほどの幼い接触。しばらくふれあっていた唇はそれ以上角度を変えることも深まることなく数秒で離れていった。

「なにすっ、」
「これで少しは動けるようになったろ」

笑うアーサーに先ほどまでの鋭さはない。
どうやら彼の中でこのお遊びは終わってしまったようだ。結局勝てなかったとすねた表情を作るアルフレッドの額をアーサーは指で弾いた。びしっ、と意外に鋭い音がする。

「いたっ」
「俺とお前はイーブンじゃねぇから真剣勝負は無理だって何度言えばわかるんだ」
「誰かと一時的に契約すれば行けるかなって思ってたんだけど……というか、あの人どこ」
「向こうで倒れてるぞ」

アーサーが立ち上がった。アルフレッドもまだふらつく体をアーサーに支えられながら立ち上がる。
半壊したホールを探せば、なるほど階段の踊り場で倒れている人影があった。
アーサーがそちらに足を向けるので自然アルフレッドもその後を追う。

苦労して登った階段の先に倒れていたのは、見覚えのある若い男ではなく干からびて骨と皮ばかりになった老人だった。

「お前がケルベロスの一つ目の頭落としたあたりからぶっ倒れてあとはビクビクいってたが、まあ、ずいぶん持った方じゃないか?」

アーサーが老人の肩を蹴ってその体を反転させた。
うちくぼんだ眼窩の奥で濁った瞳がアルフレッドを見ている。はくはくと息を吐き出すばかりの萎びた唇はおそらく彼の名前を呼んでいるのだろう。

「燃費悪いだろ、こいつ。しかも魔力が消耗限界に達すると今度は体力を容赦なく食ってくるからな」

アーサーが頬に憐憫を乗せて微笑む。

「魔術で外見を取り繕ってたようだが……全部剥がれちまったなぁ?」

うつろな老人の瞳を見るところ、アーサーの言葉は彼には届いていないようだ。ただひたすらにアルフレッドを凝視し、音にならない掠れた息を吐き出している。

「ツァー、り……、つ、ぁ……りぃ……ぃ」
「悪いけど、俺の名前はアルフレッドだよ」

アルフレッドが静かに言う。厳かな名前も、偉大な名前も、神聖な名前も、持ってはいない。育て親からもらったただ一つの名だけが、彼の本質を示している。
アルフレッドのその言葉は、老人が一生をかけてつむいできた夢の終わりを告げるものだった。

老人の瞳から一筋の涙がこぼれ、すべてが終わった。



「さて、帰るぞ」
「帰るって、風まだ止んでないんだけど」

アルフレッドの言葉通り、壊れた門の向こうに見える外ではいまだに風が恐ろしい勢いで渦巻いていた。

「こういうタイプの術は結界さえ成立しちまえば術者が死んでも当分は持つからな」
「じゃあどうやって帰るのさ!」
「俺にはどうしようもねぇな」

けろりとアーサーが嘯く。
お前が何とかしろ、と言外に告げてくる瞳にアルフレッドが深いため息をついた。

「ちょっと充電してからね」

問答無用で唇を奪う。先ほどの口づけよりも深いそれをたっぷりと堪能し、アルフレッドはようやく唇を離した。

「じゃあすぐ済ませるよ」

アルフレッドの姿が黄金の鳥へと変わる。

高く、天高く響く、鷲の声。
大地からふわりと燐光が立ち上った。封印されていた風たちだ。

自由を求める風を引き連れて鷲は扉から外へと飛び立っていく。
その羽撃きのたびに、金の光がこぼれ空に流れてく。
光る風が吹き荒れる暴風を収め、谷へと風を舞い込む。

自在に空を舞う翼は、風そのものだった。
とどまることなく、世界をめぐる風。
帰る場所など、どこにもなくても構わない。


高く、高く、謳うような鷲の鳴き声が空に響いた。





その日を、鮮明に覚えている。

――渇きを癒せるなら、だれでも。

そう言ったのだ、確かに。
けれどそれには続く言葉がある。


――けど、きっと、それは、君以外にはありえないだろう。











相変わらずの自己満足っぷりです。鷲メリ書くのって2年ぶりなんですねぇ。思入れがある作品なのでここまで放置してしまったことが驚きです。それとも思入れがありすぎてなかなか筆が取れなかったのかな。
未だに設定を本編でほとんど語らないという焦らしプレイ続行中ですが、いつか細かい設定など語れたらいいですね。
実はリクエスト消化だったりします。遅すぎてごめんなさい(9/10)