異物を呑み込んで、代わりにうつくしい石を吐き出す。
まるで真珠をつくる貝のような奴だと思った。
帰宅すると、家の明かりがついていなかった。
思わず時計を確認する。8時半。就寝には早すぎる時間帯だ。
またいつぞやのように床で寝こけてしまっているんだろうか。
夜になってもまだ昼の暑さを引き摺るような時期だから、冬場のように風邪の心配をする必要はないが、それでも硬い床で寝れば体を痛めるだろうに。
何度言い聞かせてもあいつは床で眠ることをやめない。
「アルー、寝てるのか?」
パチリ、と、手探りで部屋の明かりをつけた。
床で眠るあいつの姿を想像しながら。
きっと頬にはフローリングの跡が残ってしまっているだろう。それを笑って、カーペットを買う相談をしてみよう。夏だから毛足の長いものは置けないが、薄手のものだって敷かないよりはましなはずだ。
そんな、当たり前の明日の想像は、明るく照らされた部屋の前にあっけなく崩れ去ってしまって。
白い照明の下、無人のリビングは酷く広く見えた。
出かけてる? いや、家を空けるときは必ず連絡をよこすはずだ。
どこか他の部屋? ああ、そうかもしれない。やっと俺の言葉を聞き分けてベッドで寝ているのかも。
なんて、そんな想定をいくつしたって無駄なんだってことは、明かりがついた瞬間からわかりきっていた。
リビングに置かれたローテーブル。
あいつはその前に座って書き物をしていることが多かった。
今そこに、あいつの姿はない。
代わりに数冊のノートと、置手紙。
まだ新しいわりに使い込まれた後のあるノートには見覚えがあった。ここ数日、あいつが一心不乱に何かを書きつづっていたノートだ。
最近はあいつが何かを書いている姿をめっきり見ていなかったから、久々に何か創作意力を刺激される何かに出会ったのだろうと、あいつの新作を読むのをとても楽しみにしていた。はずなのに。
ノートを手に取ろうとすれば、いやでも置手紙の方にも目が行く。
見たくなんてなかったのに、チラシの裏側に無造作に書かれた文章は勝手に目に飛び込んでしまう。
Dear Arthur Kirklandから始まる文章は、酷く形式ばっていた。
あいつにこんなまともな文章が書けたのかと場違いにも感心する。
整った字と整った文章、チラシの裏に書かれているのがちぐはぐだ。
手紙に多くのことは書いていなかった。
この部屋を出ていくこと。
勝手に出ていくことへの謝罪。
今まで面倒を見てくれたことへの感謝。
ノートは、好きにしていいという旨。
それだけだった。たった、それだけだった。
謝罪も感謝もいらなかった。ただ、出ていく理由だけが欲しかった。
どうして、と、それだけが頭を占めて何も考えられなくなる。
結局、現実を受け入れられるまでに3日かかった。
3日しか、かからなかった。
一人取り残された部屋には、驚くほどあいつの痕跡がなかった。
いつか出ていく日を、あいつだけが思いながら暮らしていたのだろうか。
俺は能天気にも、この生活がずっと続くものだと思っていたけれど。
痕跡のない部屋を染み付いた記憶で補おうとしても、記憶の枝の末端は恐ろしい速度で切り落とされていく。
薄れていく記憶に焦り、あいつが唯一残したノートを開いたのは、それからさらに一週間後のことだった。
予想していた通り、ノートの中身は小説だった。
短編が数本と、長編が一本。
パソコンが普及した現代において、あえて手書きを貫く姿勢が好きだった。あいつは、そんなことを意識してはいなかっただろうけれど。
手書きの文字は、パソコン上で統一されたタイプフェイスなどよりもずっと直接的に、書き手の心情を伝える。
ノートを追うごとに増していく焦燥が手に取るように分かった。
何がこいつをこんなにも追いつめていたのだろう。
そんな様子、ひとかけらも俺には見せなかったのに。いや、俺が気付けなかっただけか。
荒々しい、うねる感情そのもののような字で綴られた小説。
歪な真珠のようだ、と思った。
真珠貝は呑み込んでしまった異物を吐き出せないとき、その異物が自分を傷付けないようにと、薄い膜を幾重にも幾重にも重ねて、異物を丸く包み込んでしまうのだという。そうして出来上がるのが真珠だ。
あいつにも、そんなところがあった。
心に突き刺さったものを抜き取るすべも知らずに、それをひたすら包み込んで痛みを失くそうとする。
痛みを包み込むために選んだ布地が、あいつにとっては物語を綴ることだった。
あいつが吐き出すのは、真円になりきれない、異物をただ包み込んだだけの歪な真珠。
幾重にも包みこんでいるくせに、形を整えるためにへこみを埋めたりでっぱりを削ったりなんてことはしなかった。痛みを包み込むだけならば、真円である必要なんてなかったから。
けれどそれが、とてもうつくしく思えたのだ。
ゆがんだへこみは、真円真珠にはない、うつくしい色合いの変化を生み出していた。
そんないびつなうつくしさを知ってしまってからは、世の中に満ちる人工の真円核をただ包み込んで光沢をもたせただけの作品がひどく薄っぺらく見えるようになった。そこには、耐え切れない痛みも、痛みを包み込むために幾重にも重ねられた苦労もなかったから。
繰り返し繰り返し、あいつの残していった小説を読んだ。
心を惹きつける美しさに胸を打たれて、同時に、こんなにも大きくて歪な真珠を生み出してしまうくらいにあいつの心に何かが突き刺さってしまっていたことを、一番近くにいながら気付けなかったことがつらくてつらくて仕方がなかった。
その棘の一つ一つを、俺の手で抜いてやりたかった。
あいつの作品を誰よりも心待ちにしながらそんなことを思うのは、ひどい矛盾だと知っていたけれど。
しばらくして、本屋でよくあいつの本を見かけるようになった。
どこでどうしているかは知らないが、きちんと生きているらしい。
どの本にもあとがきはなく、その生活がどんなものか知るすべはない。
けれど綴られる文章が、痛々しい生の感情が、あいつがひどく苦しんでいることを伝えてきた。
今すぐ行って抱きしめてやれればいいのに。
しばらくして、あいつの書いた話が文壇でとりあげられるようになった。
俺だけがあいつを本当に評価してやれるんだ、なんて幻想ももうおしまい。
ネットでレビューを読めば、俺よりも早くからあいつを評価していた人間がいくらでもいたことを思い知ることができた。
失恋だ、大失恋。恋の自覚さえなかったくせに。
あいつの作品は発表されるたびにその評価を高めていった。
読み取れる孤独の影はどんどん深くなっていく。
早く、早く、早く、あいつの傍に行ってやらないと。
あいつの傍には今、あのころとは比べ物にならないくらい人がいるはずなのに。どうして誰もあいつを抱きしめてやらない?
焦燥に耐え切れなくなって、一通の手紙を出した。
差出人のないファンレター。そう珍しいことじゃないだろう。
帰って来いと、そんな思いだけを詰め込んで書いた手紙だった。
あいつの目に留まるかどうかはもう問題じゃなかった。
言葉にしないと、俺がもう限界だった。
一週間たっても二週間たっても、返信はなかった。
なんとなく郵便受けを覗くことが習慣になっていたけれど、良く考えれば差出人の名前を書かなかったのだ、返信なんてあるはずもない。
けれど、どこかで期待していたんだと思う。
この字に見覚えはないか。お前を思って壊れそうな、この俺に、覚えはないか、と、そう。
あいつにとっては、俺なんてただの通過点に過ぎないだろうに。
自意識過剰だった。なんて恥ずかしい。
もう勢いに任せて出してしまった手紙なんて忘れてしまいたいと、そう思っていた矢先の出来事だった。
あいつが出て行ってしまった後も、いつか帰ってくるんじゃないかって期待のせいでいつまでも引っ越せないアパート。
その、俺の部屋のドアの前に。
うずくまる金髪。
覚えのある姿だった。あいつを拾った時もあいつは同じようにしてうずくまっていた。
「風邪、ひくぞ」
確か、あの時かけた言葉はこんな感じだったように思う。もう何年も前の、寒い夜のことだった。
今は夏の終わり。夜気にまだ昼間の暑さが残るこの時期に風邪をひく、なんて忠告は無用だっただろうか。
「……俺、あの時なんて返したっけ?」
頭を上げて困り顔をする男は、記憶よりもずっと大人びた顔立ちになっていた。
「返事なんてできる状態じゃなかったから家に担いでって風呂に放り込んだ」
「そんな情けないことになってたんだっけ、俺」
力なく笑う姿に、あの日の、まだ幼さを残したこいつの姿がダブって見えて、俺はとりあえずこいつを部屋に押し込むことにした。
あの日は温かい紅茶を入れてやったけれど、こんな暑い夜はアイスティーの方がありがたい。
俺がキッチンで飲み物の準備をしている間、あいつは所在なさげな顔でローテーブルの前に座っていた。
こうやっているとまるで今までこの生活が途切れることなく続いてきたみたいだった。
あいつが突然出ていくこともなく、あいつが一人で苦しむこともなく。
ただ生ぬるい蜜月が続いていたなら、こうして穏やかな時間を過ごせたんだろうか。
「……突然どうした?」
どう言葉を選んでも穏やかな文章にはなりそうになかったので、単刀直入に疑問を口にする。
「……それはこっちのセリフだよ。突然あんな手紙よこしたりして」
「……っ」
胸にこみ上げたのは歓喜だった。ああ、こいつは違えずに受け取ってくれたのだ、俺の声を。
嬉しさのあまりその場に膝をついてあいつの頭を抱え込んだ。
「なんで勝手に出て行ったりしたんだ、バカ」
ぎゅうと抱きしめて、髪の毛を掻きまわす。
ずっとこうしてやりたかった。
「だって俺は、君の傍にいたら書けないんだよ、アーサー」
ぽつりと落とされた事実は、きっとずっと昔から知っていた。
あいつを拾ってからも、あいつはよくノートを広げて書き物をしていたけれど、作品が精彩を欠くようになっていっていたことは知っていた。やがてペンを持つ時間さえ、どんどん少なくなっていっていたことも。
「俺は、独りじゃなくちゃ書けないんだ」
これが、こいつの心に刺さった棘の正体だ。
俺と出会う前、こいつがどうやって生きてきたのかは知らない。俺と離れた後、こいつがどうやって生きてきたのかも知らない。
けれど、その生き方に常にまとわりついているのは深い孤独だった。
人間だれしもが持っているような感情だから、それを核にした真珠は多くの人を魅了する。
「君から離れる想像をしたらさ、すらすら書けるようになった。それでも満足できなかったからこの部屋を飛び出した。うまくやっていけてるつもりだったんだよ。君が手紙なんてよこすまでは」
「見てられなかったんだ、つらくて……」
「君のおかげでまた俺は書けなくなったよ。君がまだ俺の心配をしてくれているんだって思ったらもう無理だった」
ああ、そうか、こいつにとっては、見守る存在さえも毒なんだ。見守ることさえも、許しちゃくれないんだ。
「ねえ、アーサー。お願いだから突き放して。君に突き放されたら、きっと俺は今までよりずっといいものが書ける」
ここで突き放せば、こいつは言葉通り名作を書くだろう。
他者からの拒絶は深くこいつの心に突き刺さるだろう。
大きな棘を涙で包み込んで、大粒の真珠を作るのだろう。
こいつの作品を愛した一人として、その作品を読んでみたいという思いは強くあった。
簡単だった。ただ、突き放すだけ。
気まぐれのように与えた愛を、奪ってしまえばいいだけだった。
ぎゅう、と頭を掻き抱く腕に力を込めた。
「アーサー!」
咎めるような声が腕を振るわせる。
分かってる。わかってはいるんだ。
こいつの作品を心待ちにしているのは俺だけじゃない。
突き放せ、そして、深く、その心に棘を、
「できるわけねぇだろ、バカ……」
ああ、バカな選択をした。それでも、この選択が最善だと思う。
声を上げて泣き出したアルフレッドに、それを強く実感した。
こいつが生み出す真珠を深く愛していた。
けれどそれ以上に、こいつが愛おしくてたまらないんだ。
「愛してる、アルフレッド」
貝が異物から身を守るために真珠を作る、というのは、実は嘘でして。
本当は、異物と一緒に貝殻を作る成分が体内に入って、それが真珠のもとになるそうです。
でも痛みをなんとかしたくて、その結果美しいものができるっていう発想は素敵だなぁと思います。
その美しいものさえも、当の貝にとっては、痛くなくなっただけで邪魔者のままなんですよね。それを美しいと言ってくれる人ありきかなぁと。
というわけで、真珠を美しいと言った人と、その人を喜ばせたくて自分の体で吐き出せるすべてを捧げようとした貝の話です(07/01)