きっと少し疲れがたまってたんだ。そんな言い訳をしてみる。
聞き慣れているはずの皮肉がやけに突き刺さって、いつもより棘のある言葉を吐いてしまって、それがあの人の機嫌を逆なでてしまって、あとは雪崩落ちるだけ。またやってしまった、なんて思いながらも吐くのはあの人を攻撃する言葉ばかり。全くこの関係には進歩ってものがない。
「俺がいないとまともな生活もできないくせに偉そうなこと言ってんじゃねぇよ、バカ!」
「はあ? 誰が君がいないと生活できないって? 君が勝手におせっかい焼いてるだけなんだから変な思い込みしないでくれよ!」
「生意気言ってんじゃねぇぞ、自分の食い扶持も稼げねぇ三流作家のくせに!」
「失礼なこと言わないでくれよ、俺一人なら十分に食べていける額くらい貰ってる」
「ポルノまがいの低俗小説でか? あんなの書いたくらいで作家名乗ってんじゃねぇよ!」
「ポルノの何が悪いんだい、君だってクローゼットの奥にポルノ大量に隠し持ってるじゃないか!」
「げっ、お前人の荷物勝手に漁るなよ! 自分のものに触られるとすぐ切れる癖に」
そんな、お互いの欠点を片っ端から掘り返していくような言い争いの末なんて決まっていた。ああ、もういったい何度目だい!!
「ああわかったよ、出てきゃあいいんだろ! あとから泣きついたって遅いんだからな!」
お決まりの捨て台詞を吐いてあの人は部屋を飛び出していく。ドアに詰まりそうな大きなかばんは、こうやって家出する時のために事前にまとめてあるんだろうか。わざわざ? なんて面倒なことを。そんなことを頭の片隅で考えながら、脳の大半では“やっと部屋が静かになった”なんて考えている。薄情? そんなのはお互い様。口論が始まった時にはあったはずの罪悪感なんて、こっちにだって残ってない。どうしてあの人ってああなのかな。
大きくため息を一つ。あの人と口論していたときには確かにあったはずの激情なんてもうどこかに行ってしまっていて、俺はひたすらに訪れた平穏を喜んでいた。大きく伸びをして凝った首を回すだけで切り替えてしまえる自分の感情は随分と扱いやすい。たった数分前に部屋を飛び出していったあの人のことさえも、すでに頭の隅に追いやられている。
さて、一人になれたならやることは一つだ。俺はくるりとつま先をキッチンへと向けた。備え付けの棚を漁って、シリアルやなんかの箱の陰に押しやられている煙草を引っ張り出す。未開封2カートン。タバコの煙を嫌うあの人によって封印されてしまっていたやつらだ。隠し場所は前々から知っていたんだ、探したことがあるから。まあ、探す過程であの人のポルノの趣味とか、いらない知識までついちゃったけどさ。創作の足しにはなったよ、うん……うん。隠し場所は知ってた、けど、吸わなかった。これって俺なりの譲歩のつもりだったんだけどな。あの人は、こういう俺の努力はまるきり無視して自分の努力が報われてないって騒ぐ。
パッケージを乱暴に破って煙草を取り出して、ああ、火種。どこだろう。確かここに、と机をあさるとかろうじて没収を免れていたらしいジッポが出てきた。まあこれでいいか。火をつけて、ゆっくりと一口目。吐いた紫煙で視界がけぶるのも久々だ。鼻歌でも歌いたいくらい陽気な気分で俺は商売道具を起動させた。少しばかり旧式のそれは起動にやや時間がかかるから、それまでの空白がやや手持無沙汰だ。ついつい手元にあるジッポをいじりまわす。繊細な意匠の、値段ばかりが張る煙草に火をつけるための道具。全く持って趣味じゃない。細かな彫だって乱暴に扱うからところどころつぶれてる。俺はもっと、頑丈で利便性のあるやつのほうが好きだよ。同じことを、これを買ってきた人にも言った。あの人に。タバコは嫌いだ、やめろ、煙たい。そんなことを言うくせにタバコを吸うための道具を買ってくるあの人は矛盾してる。そういえばこの家に灰皿を置いたのもあの人だった。灰皿なんて空き缶で十分なのに。
最初の一本をたっぷり味わいきるころにはパソコンも起動している。二本目に火をつけて、俺はキーボードの上に両手を乗せた。あとはひたすら文章を打っていくだけだ。あの人や編集に言わせれば、俺はかなりの速筆家、らしい。比較対象なんていたためしがないから俺自身それを感じたことはないけど、おかげで締め切りに間に合わなかった作家の穴埋めのための原稿依頼なんかがよく来て、俺は何とか専業作家を続けていられている。依頼は単発か、続いても5話程度の連載。特定の連載や、コンスタントな依頼は今のところない。そういう意味ではすごく不安定な生活だった。
そんなことをつらつらと考えていたのは最初のうちだけで、あとはひたすらアウトプットに夢中だった。ストーリー性も整合性も必要のない、とりあえずヌければいい小説っていうのはすごく書きやすい。あの人はこういう俺のやり方に対して、そうやって一工夫を怠るからお前はいつまでも売れないんだ、なんて言ってたけど、あの人、人をポルノ小説で大成させたいんだろうか。そのくせ口論になるとあんなくだらないものを書いて、とすぐに槍玉に挙げてくるんだから。
そうやってしばらく書き進めていると喉が乾いてきた。久しぶりに吸ったタバコで喉がいがつく。コーヒー、飲みたいな。ぎし、と椅子を軋ませてキッチンのほうに首を伸ばす。
「アーサー、コーヒー」
って、いないんだっけ。ついでにいっぱいになってきた灰皿も片づけてもらおうと思ったのに。せっかく筆が乗ってきたのにここで席を立つのは面倒だな。けれど一度自覚してしまった喉の渇きは誤魔化せそうもなくて、俺はしぶしぶ椅子を引いた。キッチンに常備されているインスタントコーヒーはこんな時のため。あの人に頼むときちんと豆から抽出したものが出てくる。本人は紅茶派なのに、他人に出すものにまでこだわるのってよくわからない。それでも、インスタントに物足りなさを覚える俺の舌はすっかりあの人に躾れられている。あの人だって最初っから上手かったわけじゃない、ある日突然コーヒー豆を買ってきたかと思えば抽出しすぎて渋くなったそれを突き出してきて感想を言えと言いだして。俺という実験台の元、あの人は一時期とりつかれたようにコーヒーを淹れまくっていた。昔から、紅茶を淹れるのだけはとても上手な人だった。それと関係があるかないかはわからないけれど、あの人の上達は早くて。多分俺は、どんな老舗の珈琲店のコーヒーよりもあの人の淹れるコーヒーが好き。味だとか風味だとかじゃなくて、なんていうのかな、あの人のが一番好みに合うんだ。サンプルが俺だったんだから、当たり前なんだけどさ。
適当な分量で作ったコーヒーを口に運ぶ。
「にが、」
入れすぎたな、濃すぎる。砂糖とミルクを入れれば少しはマシになるかな。いっそカフェオレにしようかな、なんて考えながら冷蔵庫を開ける。げ、あの人またスコーン焼いてたんだ。あの人はもう少しつくる量ってものを考えたほうがいい。処理する側にもなってくれ。というか、コーヒーの腕は上達するのに、どうして料理の腕はいつまでたっても改善されないんだろう。ため息をついてみても冷蔵庫に鎮座するスコーンの山は消えない。仕方ない、少しでも処理しておくか。スコーンを大皿ごと取り出して、冷蔵庫を閉める。しまった、本来の目的を忘れてる。
「もー、牛乳がほしいんだって、牛乳」
スコーンを置いてもう一度冷蔵庫を開ける。牛乳牛乳っと。ボトルを取り出そうとしたところで、バタンと何かが倒れる大きな音がした。しかも、すごく近距離で。
「え、?」
思わず変な声が出た。だって、キッチンに倒れるようなものなんてないぞ。それでも音の正体を確認する前に冷蔵庫の戸を閉めてしまったのは習慣というか、何というか。牛乳のボトルを持ったまま恐る恐る音のした方を見る。こども、だ。え、なんで、どこから入ったんだい、しかもなんで倒れて、
「うー……」
子供がうなる。よかった、死んでない。いや、よくないって、なんでキッチンに倒れてるんだい、不法侵入? ぐるぐると視線をさまよわせてると子供の傍に炭が落ちているのを見つけた。あ、違う、よく見ると炭じゃなくてあの人のスコーンだ。もしかしてこの子これ食べたの? うん、納得。って、だから、根本的解決になってないって、この子どこから入ったんだい、そもそも誰。
「おーい、大丈夫かい?」
丸い頬をつっついてみる。子供がまた唸って眉を寄せた。眉毛太いなぁ。ちょっとあの人に似てる。あの人の髪はもっとぼさぼさしてるけどさ。本人はそれなりに気にしてるみたいだから、この子みたいなストレートはうらやましがるんじゃないだろうか。そんな金髪の上には、変なデザインの帽子。今ってこういうのが流行ってるのかな。つばがなくて、両側に突起が2本付いてる。動物の耳、いや、どっちかっていうと角だ。悪魔みたいな、少しだけ反った角。よく観察してみれば腰から尻尾みたいなのがはみ出してる。コスプレ? 仮装? ハロウィンはとっくに終わったよ。もし今日がハロウィンだったら、子供が部屋に入り込んでいたことも、勝手にスコーンを食べていたことも言い訳ができた、かもしれない。結構厳しいけど。でも、今日はハロウィンじゃない。この子はいったいなんなんだ。
「ちょっと、いい加減起きてくれよ」
子供の肩を揺するとようやく目を開けた。目が青い。緑じゃないんだ、とどこかであの人と重ねてた自分がいた。馬鹿だな、似てるのなんて眉毛だけじゃないか。あれ、でもこんな眉毛そうそういないよな、
「もしかして君、あの人の親戚か何かかい?」
口に出してみたら、ますますそんな気がしてきた。そうだよね、こんな眉毛遺伝か何かじゃないと似るわけない。
「お、お前、ピー君のことが見えるのですか!?」
何言ってるんだこの子。あれかな、少し早いチュウニビョウってやつかな。そう考えるとこの子の変な格好にも納得できる。あの人もたまに妖精だとか呟いてるから、妄想好きって遺伝するんだろうか。
「幻覚の話ばっかりしてると友達いなくなっちゃうんだぞー。で、君どこから入ってきたの?」
「幻覚なんかじゃないです! ピー君はれっきとした死神なのですよ!」
あー、なんか手遅れっぽいな、この子。今からこれじゃあ将来大変そうだな。なんだかこの子があわれに思えてきて思わず頭を撫でた。そうしたら子供はさらにびっくりしたような顔をした。
「な、なんで触れるんですか!! おかしいです!!」
「そんなにおかしなことなのかい?」
「すごくおかしいのですよ! 普通なら気配を感じられるだけでもすごいのに」
うーん、やっぱりこういうのはあの人向けだ。同じ妄想家同士意気投合できただろうに。俺は子供も妄想家も専門外だ。こういうときってどうすればいいんだろう。突然現れた子供に死神ですなんて名乗られても信じられるようなもんじゃないだろ? でも多分否定したらこのまま平行線なんだろうな。とりあえずここはこの子供の妄想に付き合ってみよう。
「で、死神の君はどうしてここに来たんだい?」
「うーん、本当は極秘任務なのですが、姿が見えたよしみで特別に教えてやるのですよ。ピー君はお前の魂を回収に来たのです!」
「魂を回収って、俺もうすぐ死ぬってことかい?」
「正確にはあと10時間後なのですよ」
「へぇ」
あと10時間かあ。嘘だと分かっていても思わず時計に目が行ってしまう。今書いてるのはぎりぎり書きあがりそうだけど、今依頼が来てる他の3本はどこまで書けるだろう。構想はある程度できているからあとは打つだけだ。一本3時間弱、いけるかなぁ。
……あと10時間? 待って、ねえ待ってよ。締め切りが、じゃない、俺の人生があと10時間? ポルノなんて書いてる場合じゃないだろう!
走馬灯のように駆け巡ったのは、まだ一文字も形にできていない物語だった。ずっと、作家になるずっと前から思い描き続けたストーリーを、言葉にするにはまだ自分は未熟だからと筆を執るのを避け続けてきたんだ。あと10時間。残されただけでどこまで書ける? どこまで形にできる? メインストーリーの完結なんて到底無理だ。じゃあサイドストーリーだけでも? 無理だ、こっちだって10時間で仕上がるような長さじゃない。俺の頭の中にあるだけじゃ、ないのとおんなじだ。こんなことになるのがわかってたら、どんなに拙くても言葉にしたのに!!
そこまで考えて、ようやく我に返った。子供の妄想に本気になってどうする。ああ、でもまだ心臓がうるさいや。思わず胸元を握り込む。こんなに自分の死に直面したことってない。そうだ、明日を迎えられない可能性だってゼロじゃないんだから。ずっと書き溜めてきた草案を掘り返してみようか……。
でも、まあ今は、
「とりあえずコーヒー飲もう」
少しだけぬるくなってしまったコーヒーに牛乳を注ぐ。マグとスコーンの皿を持って仕事部屋に戻ろうとしたら、顔面を蒼白にした子供がありえないものを見るような目でこっちを見ていた。
「どうかしたかい?」
というか、結局この子はなんなんだ。今のところあの人の親戚説が有力だけど。
「それ、食べるんですか……?」
「ああ、うん。食べなきゃ減らないしね」
子供がますます青くなる。さっき食べて気絶してたもんね。そりゃトラウマにもなるか。
「それは人が食べてはいけないものなのですよ……」
「そうかい? なれれば食べれないって程じゃないよ」
くそまずいのは変わらないけど。考えてみれば俺以外にあの人の料理を食べれる人に会ったことがないな。振る舞うのは、好きみたいだけど。
「あの人の料理がまずいのは今に始まったことじゃないしね」
「こんなのが毎日出たらピー君絶対訴えてやるのですよ」
「残念ながら毎日こんな感じだよ」
山盛りのスコーンを一つとって齧ったら、子供が目を見開いて驚いた。なんだかおもしろくなってきてしまって、食べかけのそれを子供差し出す。腕を伸ばした分だけ子供の背がのけぞるのが面白かった。
「遠慮せずに食べればいいのに。これの処理手伝ってくれたら不法侵入と盗み食いは大目に見てあげるんだぞー」
「い、いいいいい、いらないのですよ!!」
そんなに真っ向から否定されると少し傷つく。俺、毎日これ食べてるんだけど。
「虐待なのですよ……」
子供とは思えないようなどっしりと絶望した声をあげた。その原因があの人のスコーンだなんて少し笑える。
「それはこれを作った人に言ってくれよ」
「こんなの作るやつがまともなはずがないのですよ!」
ひどい言われようだなぁ。この子の中であの人の評価はどん底らしい。料理ひとつで。
「まあ、料理はくそまずいし口はうるさいし余計なおせっかいばっかり焼いてくる人だけどさ……」
それを指摘するとどうせ俺なんてとネガティブモードに突入してまたぎゃあぎゃあと騒ぎ出すからこれまたうるさい。人の話なんて全く聞く気がなくて、自分の都合が悪くなるとすぐに部屋を飛び出してくんだ。さっきみたいに。そういえばあの人どこに行ったんだろう。行きつけのカフェか、数少ない友人の家が有力。あんなに大きな荷物を抱えていったんだから、数日は帰ってこないつもりなのかもしれない。
俺、あと10時間で死ぬのにな。さっきの子供の妄想を引っ張り出してみる。タイムリミットまでにあの人が帰ってくる確率は、経験上凄く低い。落ち着いた頃に帰ってくるんだろうけど、そのころには俺は冷たくなってるんだろうな。泣くだろうか、あの人は。泣くだろうな。少し想像するだけで簡単にあの人の泣き顔が浮かんでくるのは俺の自惚れだろうか。でもやっぱり、あの人は泣くと思う。どうせなら遺書でも書いてみようかな。愛してたよって? ……柄じゃない。何十枚の遺書よりも、最期に思いっきりあの人を抱きしめたいな。多分、それだけで十分。
コーヒーとスコーンの苦いにおい。そこに紅茶のにおいが混じっていないことが無性にさみしくなってきた。あの人は俺の生活にすっかり染み付いてる。たまには俺が折れてみようかな。今すごく、あの人が淹れたコーヒーが飲みたい。
「なーなー、いつになったら出かけるのですかー」
机に顎を乗せた子供が上目遣いでこちらをみてくる。背後で尻尾がゆらゆらと揺れていた。その尻尾、動くんだ。さっきからなあなあになってしまっているけれど結局この子はなんなんだろう。いつまでいる気だい?
「出かける予定なんてないよ。今日は一日原稿」
「えー、でも急がないと時間までに空港につけないのですよ」
「空港?」
なんで空港が出てくるんだろう。今日だけじゃなく、これから先一年の予定を見たって空港に行く予定なんてない。
「空港に行く予定なんてないんだけど」
「それはおかしいのですよ、だって、」
子供が焦ったようにポケットから何かを取り出した。なんだろう、手帳みたいだけど。ぱらぱらとページをめくって、目的のページを見つけたのか子供が顔を輝かせた。
「ほらっ、やっぱりピー君は間違ってないのですよ! 今出ないとフライトに間に合わないんですから!」
「ちょっと待ってよ、本当に意味が分からない」
話が全く見えないのがじれったくて、思わず子供の手から手帳を奪い取った。開かれていたページに書かれた文字は意外に整っている。多分誰か大人が書いたんだろう。でも、本当に気を向けるべきはそこじゃなかった。
「これ、どういうことだい……」
そこに書かれていたのはこのフラットの住所と、
あの人の名前。
[17時47分発382便に搭乗、大西洋上空で搭乗機が墜落、死亡。]
ガツンと衝撃が走った。重たい鈍器で殴られたみたいだ。子供の妄想だって、もう笑い飛ばせない。おかしいな、さっきはできたはずなのに。
「あー! 人に見せちゃダメなのになんてことするんですか!! 返せなのですよ――!!」
「ここに書いてあることは、全部現実になるのかい……?」
「あたりまえなのですよ。死神の取り決めは絶対なのです」
子供がきりっと胸を張る。こっちの気分は最悪だよ! 大体なんであの人飛行機なんかに乗ろうとしてるんだ。……ああそうかイギリスか! こんな時に限ってどうしてそんな大規模な家出をするのかなあの人は!! どうやったら阻止できる? 子供の言うとおり今から空港に行くにはかなり急がなきゃいけない。しかも今は夕暮れ時だ、どこで渋滞に巻き込まれるかわからない。とにかく電話を、と携帯をとる。履歴からあの人の電話番号を呼び出して通話ボタンを押して。呼び出し音が聞こえるまでの少しの間ももどかしい。ようやく呼び出し音が聞こえた来た! と思えば同時にリビングから携帯の鳴る音がした。あの人携帯忘れてったな!! 馬鹿じゃないのか、あんなに大きな荷物持っておいて! あの人の忘れ物癖のひどさ忘れてたよ!!
どうする? どうする? どうしたらいい?!
空港に電話? だめだ、俺の名前を出したら逆効果だ。あの人は引き留めようものならムキになって飛行機にのる。絶対。大体あの人を止めたって飛行機事故は起こるんだ。10時間後に死ぬのはあの人だけじゃない。あの人以外はどうでもいい? 見捨ててしまっていいのか? もちろん俺にとっては赤の他人だけど……だけどさ……! ああもう頭がぐちゃぐちゃだ。
一度閉じた携帯をもう一度開く。きっとこれは最善じゃない。けど、これ以外の手が思い浮かばないだ。
調べたのは空港の電話番号。相手が出るまでの時間は、さっきの数倍もどかしかった。つながった瞬間、相手が形式化された挨拶に被せるように捲し立てる。
「382便に爆弾が仕掛けられている、フライトを中止してくれ!」
『はぁ』
ぽかんとした声が返ってくる。まあ当たり前だ。でもこの幼稚な芝居を、俺は最後まで突き通さないといけない。
「ソースは明かせない。でもこのままなら確実に数百人が死ぬ。フライトを中止しろ」
一息ついて、次はできるだけ落ち着いた声を出せるよう心掛けた。いたずらだと笑われてしまうだろうか。衝動で行動した後悔がじわじわと這い寄ってくる。こんな現実味のない話、ソースもなしに信じる馬鹿なんていない。
「信じるも信じないも君次第だ。俺はこれから各種メディアにも同じ内容の電話をする。俺の忠告を無視して事故が起こった場合、責められるのは君だということを忘れるな」
受話器の向こうは完全に沈黙してしまっている。もしかして聞いていないのかもしれない。ああ、そしたら全部台無しだ。ぐるぐると最悪の未来が頭をめぐる。爆発する機体、ばらばらになる遺体、あの人の体は、全部返ってくるだろうか。いやむしろ、骨のひとかけらでも帰ってくるだろうか。あの人が部屋に残していったお気に入りのティーカップが唯一の形見だなんて笑えないぞ。
「これが最後の忠告だ。F382便には爆弾が仕掛けられている。フライトを中止しろ」
それ以上はもう我慢できなくて一方的に電話を切った。ああもうだめだ信じてもらえたとは思えない。でも本当のことを言ったって信じてもらえないだろ?! 死神がその飛行機は墜落するって言ってるからフライトをやめろなんて。
「くそっ」
居ても立ってもいられなくなって、俺は車のキーをつかんで部屋を飛び出した。俺の後ろを、あの子供が嬉しそうについてくる。
「やっと空港に行くですか? 今からだと相当ギリギリですけど、運命は変えられませんからね、きっと間に合うのですよ!!」
「君、まだ俺が死ぬと思ってるの、っ?」
「だから、決まりは変わらないのですよ」
「そうじゃない、人違いなんだよ、死ぬのは俺じゃない」
死ぬのは、あの人。ばらばらになるあの人の妄想が脳裏にこびりついて離れない。いつも使ってるはずの階段がすごく長い。早く、早く。
「ええっ、じゃあ本物はどこにいるんですか!」
「君が言った通り、空港さ」
愛車のカギを開けて運転席に飛び込む。当たり前のように子供が助手席に乗ってきたけど、今はつまみ出す時間も惜しい。
「しっかりシートベルトしてくれよっ!」
そう叫ぶのと同時にアクセルを踏み込む。一気に加速した車体に隣で子供が奇声を上げたけど、俺は忠告したからねっ。
「いったいどこに行く気ですか!!」
「空港に決まってるじゃないか」
「どうして!」
響くタイヤの摩擦音。映画のカーチェイスみたいだ。これであの飛行機に乗るはずだった数百人の人の命が救われるんだっていうんなら、まさしくヒーロー映画。でも、
「あの人を助けに行くんだよ」
数百人とあの人となら、あの人を選んでしまう俺はきっとヒーロー失格だ。全員を助けられないなら、あの人だけでもって、そう考えてる。
「あの人って、あの黒いのを作ったやつですか? でもっ、さんざん悪口言ってたじゃないですか!」
「君はっ、自分の指の形が気に入らないからって腕を切り落としたりする?!」
つまりはそういうことなんだって。あの人はもう俺っていう存在の一部なんだ。
空港に近づくにつれて空に飛行機を見かける回数が増えていく。まだ時間にはなっていないと分かっていても、あのどれか一つにあの人が乗ってるんじゃないかと思うと気が気じゃない。
空港の駐車場に車を滑り込ませたとき、時計は搭乗が終わる頃合いを指していた。もうこれは滑走路に飛び出して力づくで止めるしか方法がないんじゃないだろうか。人身事故が起こればさすがにフライトだって中止になるだろ。そんなことを考えながら飛び込んだ空港の構内はたくさんの人であふれていた。国際線もある空港だから、これくらいで混雑しているとは言えないだろう。それでもこの人だかりの中からあの人を見つけ出すのは途方もないことのように思えた。闇雲に探したって見つかるわけがない。俺が真っ先に向かったのはインフォメーションセンターだった。
「すみません、イギリス行382便の搭乗口は……っ」
だんっ、とカウンターに手を叩きつけながらそう尋ねると、受付の女性が驚いて少し体をのけぞらせた。ああもう、冷静になれって、俺。
「失礼、382便の搭乗はもう済んでしまいましたか? 見送りの約束をしていたのですが、渋滞に巻き込まれてしまって」
「382便ですね、少々お待ちください」
こっちは少しだって待てる余裕がないんだよ!! そう叫ぶのは何とかこらえた。はやる気持ちをぐっと押さえ込んでいると、受付の女性がよかったですね、と笑いかけてきた。
「382便は緊急メンテナンスのため離陸が見合わせになっています。搭乗もまだ開始されていませんから、コンコースCに行っていただければご友人ともお会いできると思いますよ」
「……っ! ありがとうございます」
離陸見合わせの原因はあの電話かな。いや、そんなことどうだっていい。今は、早くあの人に会いたい。お礼もおざなりに俺は教えてもらった場所へと急いだ。いつの間にあの人のいない未来を考えられなくなってたんだろう。あの人がいる日常が当たり前だったんだ。あんな喧嘩が、怒って出ていく後ろ姿が、最期になるなんて考えたこともなかったんだ。どうして俺たちは喧嘩ばっかり繰り返してるんだろう、俺は、あの人なしじゃ生きていけないのに。わかってる、もっと優しくなるべきだった。多分、お互いに。皮肉も、反論も、タバコも減らそう。それだけであの人との時間が増えるなら安いもんだろう?
コンコースにはたくさんの人。でも、後姿だけであの人がわかった。群衆からあの人を探すなんて、絶対に無理だと思ってたのに。
「アーサー!!!」
あの人が振り向くよりも早くその身体を抱きしめた。昨日も抱きしめたはずの身体が、すごく懐かしかった。この人ってこんなに細かったんだって、なんで今までそんなことにも気づかなかったんだって感想を抱く。
「あ、アル!? なんで、」
「アーサー、よかった」
あ、なんか泣きそう。なんとか隠したくて、抱きしめた肩に顔を埋めた。
「い、今更来たってもう遅ぇんだからなっ!」
ああ、そういえば今って喧嘩中だったっけ。原因なんてろくに覚えてない、くだらない喧嘩。
「遅いなんて言わないでよ、ごめん、謝るから」
「……遅ぇよ……ばか」
「うん、そうだね」
「俺がいねぇとまともに飯も食えねぇくせに……」
「うん、そうだよ、だから……帰ってきて、アーサー」
懐かしいやり取りだった。喧嘩しては出ていくこの人を追いかけなくなってしまってからどのくらい経つんだろう。どうせすぐ飽きて帰ってくるだろうって、そう知ってしまったから。この人はずっと、追いかけてきてほしかったんだろうか。ばか、となじる声はやまない、けど、遠慮がちな腕が背に回っただけで全部許されたような気分になった。
細い体をぎゅうと抱きしめているとコンコースにアナウンスを告げるベルの音が鳴った。
『382便への搭乗をご予定のお客様にご連絡いたします。当便は緊急メンテナンスの為、離陸を見合せておりましたが、機体不備が発見されたためフライトを中止いたします。お客様には大変ご迷惑をおかけしますが……』
スピーカー越しの女性の声はその後もつらつらと何かをしゃべっていたけれど、フライトが中止になったことを確認できただけで俺は十分だった。
「フライト、中止になっちゃったね」
「ああ、もう逃げられねぇな」
逃げてるって自覚、あったんだな。頭の片隅でそんなことを考えたけれど、背中に回った腕が強くなっただけでもうどうでもよくなった。フライトの中止がアナウンスされたせいでざわめきが増した人混みの中で抱き合う。人目なんて気にならなかった。
そういえば、あの子供はどうしたんだろう。受付に飛び込んだ時まではついてきていたような気がするけれど、そのあとは? あの子は本当に死神だったんだろうか。382便は結果的に飛ばなかったわけだから本当に事故が起こったかどうかはわからない。でもこの人が飛行機に乗ることを知っていた人は誰もいないはずだから、やっぱり超人的な何かだったんだろうか。ふと視線を投げた雑踏の向こうに、あの子供と、子供を叱る銀髪の男を見た気がした。保護者だろうか。もしかしたらあのノートの持ち主かも知れない。
そんなことを考えていると、くいくい、と服の裾を引かれた。こちらの気を引くようなしぐさと、少し不服そうな上目づかいが愛おしくてたまらない。帰ろうか、と笑いかけたらあの人は恥ずかしそうに目をそらしながら小さく、おう、と頷いた。まるで初恋みたいなときめきで胸がいっぱいで。思わずもう一度あの人を抱きしめた。
「お前……またタバコ吸っただろ」
「うん、だけどもうやめるよ」
だって長生きしたいしね、他でもない君と!
2012/12/26 pixiv掲載
2013/04/02 サイト格納