我慢比べに勝ったのはどちらだったのか

 その日アルフレッドは傘を二本持っていた。
 まだ昼だというのに土砂降りのせいで外はまるで夜のようで、アルフレッドは水たまりをよける努力もしないでばしゃばしゃと通学路を歩いていた。外遊びができないのはつまらなかったけれど、買ったばかりの長靴を履けるのが嬉しくて、その日アルフレッドは少しだけ遠回りの道を選んでいた。
 普段は通らない公園の傍の道。足元を見下ろして、わざと水たまりをかき回すようにして歩く。
 ばしゃん、と大きく水を蹴り上げた。

「あっ、」

 思わず声を上げてしまったのは、蹴り上げた水が視界の隅に映っていた革靴にかかってしまったからだ。水たまりに夢中で、目の前に人がいることに気が付かなかった。

「ご、ごめんなさいっ」

 アルフレッドはあわてて傘を持ち上げてその人を見上げた。


 びしょ濡れの若い男が道路のほうを向いて立っていた。


 アルフレッドは拍子抜けした。てっきり怖い顔で怒られると思っていたのに、その人はアルフレッドには目もくれず道路の方をじっと見つめていたのだ。行きかう車を眺めているわけでも、道路の向こうの店を眺めているわけでもない。公園の入り口、途切れた生垣に寄り添うようにして立ったその人は、ぼんやりと道路のほうに顔を向け、ここではないどこかを瞬きもせずに見つめていた。
 ぐっしょりと水を含んだ髪が丸みを帯びた頭の輪郭に張り付いている。束になった毛先からはひたひたととめどなく雫が落ちていた。もうどれだけそこに立っているのだろう、どこか時代遅れなスーツもすっかり色を変えてしまっている。
 雨に溶け込むような男を見上げ、アルフレッドは知らず知らずのうちに息をのんだ。

「あ、あのっ!」

 雨に紛れないように大きな声を出すのには、少しだけ勇気が言った。男が瞬きをする。長い睫毛から雫が滴った。ゆっくりとこちらを見た男の顔はぞっとするほどに血の気がなかった。鮮やかな緑色の瞳が、ぼんやりとアルフレッドのほうにむけられる。そこにある感情を、アルフレッドは読み取れなかった。まだ十に満たない少年には理解できない感情だった。

「傘、使いますかっ?」

 半ば押し付けるようにして、アルフレッドはさしていない方の傘を差し出した。男はぼんやりとした表情のまま数度瞬きをして、傘を見、アルフレッドを見、首をかしげた。

「俺に?」
「うん。濡れたままじゃ風邪ひいちゃうよ」

 さらに傘を突き出すと、男は恐る恐るそれを受け取った。若い正装の男に子供用の鮮やかな傘はとうてい似合わなかったが、アルフレッドは満足して頷いた。

「ありが、とう、」

 男はまだ戸惑った様子で、引き寄せた傘を見下ろして不思議な表情を浮かべていた。

「留め具を外して、ここをおすんだよ」

 きっと使い方がわからないんだろう。男の様子をそう解釈して、アルフレッドは傘の使い方を男に教えた。その言葉に従い、男がぎこちなく留め金を外して傘を開く。子供用の小さな傘はやはり男には不釣り合いだったが、男は小さく笑って見せた。口角を無理やり持ち上げたような不器用な笑みだった。それでもアルフレッドに感謝を伝えたいのだろうということは何となくわかったから、アルフレッドは男にニコリと笑い返した。

「じゃあね、お兄さん」 「ああ、」

 男の前を通り過ぎ、アルフレッドは自分の家へと足を向けた。先ほどまでのようにぱしゃんぱしゃんと水たまりを蹴りながら歩いていく。

 公園の曲がり角のところで立ち止まり振り向くと、遠くに鮮やかな傘が佇んでいるのが見えた。




 アルフレッドが男と再会したのは、やはりひどい土砂降りの日だった。

 あるふれっどが家へと続く角を曲がり、顔を上げると見慣れた色の傘が見えた。もしや、と思いつつ近付くと、男はあの日と同じようにそこに立っていた。違うことと言えば、傘をさしていることと、アルフレッドの家の庭の前に立っているということ。
 どうしてこの人は家がわかったんだろう。
 あの日は土砂降りの中ただ立っているだけの男を奇妙に思った。けれど今日は違う。アルフレッドはあの日と同じように立ち尽くす男に、確かに恐怖を感じた。ぐ、と傘を下に下げて男を隠す。どうしても視界に入り込んでしまう男の足を必死で見ないようにしながら、アルフレッドは男の前を通り過ぎようとした。

「なぁ、」

 アルフレッドが男の正面を横切ろうとしたちょうどその時、男が声をかけてきた。アルフレッドはぎくりとして、その場で足を止めてしまった。早く通り過ぎないとと思うのに、どうしても足が動かない。

「家に入れてくれないか。少し雨宿りさせてもらえるだけでいいんだ」

 男がそう話しかけてくる。けれどアルフレッドに返事をするような余裕はなかった。悲鳴を上げないように唇を固く噛み、指先が震えないように傘の柄を強く握るので精いっぱいだ。
 男はそれ以上何も言わない。アルフレッドはギュッと固く目をつむった。ばらばらと大粒の雨が傘をたたく音だけが耳に響く。

 どれだけそうしていただろう。雨の音はやまない。男が立ち去る音もしなかった。それでもいつの間にかいなくなっていればいいのにと思いながら目を開けた。自分の足を中心とした視界の端には、やはりあの革靴が映り込んでいる。アルフレッドは悲鳴を必死でこらえた。

「ごめんなさい、知らない人を家に上げちゃダメって言われてるからっ!」

 そう叫んで、アルフレッドは傘を放り出して家へと走った。ドアノブを回そうとすると、がちゃんっ、と硬い音がした。最悪だ。家には誰もいないらしい。アルフレッドは慌てて家の鍵を取り出して、震える手で何とか鍵穴にそれを押し込んだ。鍵を開けて、家に飛び込む。後ろ手で鍵をかけて、アルフレッドは自分の部屋まで振り返らずに走った。鞄を投げ出して、濡れた服のままベッドに飛び込む。毛布を頭からかぶって、アルフレッドはガタガタと震えた。アルフレッドの部屋の窓からは家の前の庭と、その先の道路が見渡せる。今もあの男はあそこに立っているのだろうか。じっと窓を見つめる男の姿が頭をよぎって、アルフレッドは固く目を閉じた。窓の外を確かめる勇気は、最後までわいてこなかった。


 アルフレッドはいつの間にかそのまま寝てしまったらしく、買い物から帰ってきた母に起こされるまでずっと眠り続けていた。起こされた時には雨はやや小ぶりになっていて、窓の外にあの鮮やかな傘はいなかった。  庭の柵に引っかかっていたわよ、と母がアルフレッドが投げ出した傘をくるくるとまとめながら言った。傘は、一本しか落ちていなかったらしい。



 それからも男はたびたびアルフレッドの前に現れた。
 決まって土砂降りの夕暮れに、アルフレッドの家の庭の前、あの似合わない子供用の傘をさして、男は立っている。そうしていつもアルフレッドがその正面を横切るときにこういうのだ。

「家に入れてくれないか」

と。

 初めは夢でうなされるほど怖かったが、あまりにも男の行動がワンパターンだったので、何度も続くうちにアルフレッドはすっかりその存在に慣れてしまった。男はアルフレッドにしか見えない。というより、アルフレッドが一人の時にしか現れないらしい。
 いつもいつも、土砂降りの中惨めったらしく立ち尽くしている。そんな姿にアルフレッドは恐怖を通り越してあきれのようなものを感じ始めて、初めのうちは無言で立ち去っていたというのに、慣れきってしまった後は「だから無理だって言ってるだろ」と男を睨んで悠々と家の鍵を開けるようになってしまった。男はどうやら庭より中には入れないらしく、たとえ庭の外であってもアルフレッドに危害を加えるようなことはしなかった。
 そんなアルフレッドを、男は泣き出しそうな目で見ている。そう、男は泣きそうな表情をしているのだ。初めて会った時にはわからなかったその表情を理解できるようになるほどに、アルフレッドは成長していた。身長はもう少しで男を追い越すだろう。あの時は彼の胸ほどまでしかなかったのに。対する男は、全く老いる気配がない。あの時と同じ、若い姿のままそこに立ち続けている。


 雨が降っている。

「家に入れてくれないか」
「だめだよ」

 いつもと変わらないやり取り。



 雨が降っている。

「家に入れてくれないか」
「だめだよ」

 いつもと変わらないやり取り。



 雨が降っている。

「家に入れてくれないか」
「だめだよ」

 いつもと変わらないやり取り。



 雨が降っている。

「家に入れてくれないか」
「だめだよ」

 いつもと変わらないやり取り。



 雨が降っている。

「家に入れてくれないか」
「だめだよ」

 いつもと変わらないやり取り。



 雨が降っている。

「家に入れてくれないか」
「だめだよ」

 いつもと変わらないやり取り。



 雨が降っている。

「家に入れてくれないか」
「だめだよ」

 いつもと変わらないやり取り。



 鍵を開けながらちらりと振り返った庭の向こうには、鮮やかな色の子供用の傘。雨に溶けだしそうな輪郭と、泣き出しそうな表情。いつもと変わらない光景だった。









 雨が降っている。

「家に入れてくれないか」
「いいよ」

 大学生活2年目。自宅からでも通学できる距離の大学だったが、生活に不都合が出てきたので大学近郊に引っ越しをした。単身者用のワンルームに庭などない。男は玄関のすぐ横に立っていた。屋根のある通路だというのに傘をさしているのが滑稽だ。傘から滴る水滴が、男の立つ場所を黒く塗りつぶしている。
 いつの間にか男を追い越していた身長のせいで、相変わらずであろう泣きそうな表情は傘に隠れて見えなかった。

 男のいつもと変わらない問いかけに、アルフレッドはいつもとは違う返答をした。

 男のさす傘が大きく揺れた。傘の表面の水滴が流れ、びしゃびしゃと地面を打つ。それなりに気に入っていたはずの傘は、すっかり小さくなってしまっていた。色も少しばかり褪せてしまっているように見える。
 アルフレッドは男の存在などなかったかのように部屋の鍵を開けた。当たり前のように部屋に入り、雨に濡れた靴を脱いだアルフレッドの背にどん、と何かがぶつかった。
 いや、何か、などと白々しいことは言えない。アルフレッドの背に、男がしがみついていた。首筋に濡れたものが押し付けられる。多分額だ、とアルフレッドは玄関に立ち尽くしたまま思った。振り返ることなく、薄暗い廊下を眺める。

「ああ、やっと……」

 男が首筋で囁く。しっとりと押し付けられたのは、多分唇だろう。アルフレッドはゆるゆると目を閉じた。



 ぎぃぃ、と重たい音を立ててドアが閉まる。バタン、という音を最後にアパートの通路には再び沈黙が降りた。通路には一人分の足跡と、円形に濡れた跡。古びた子供用の傘が、持ち主を失ってくる、くる、と揺れていた。











pixiv掲載 2013/10/12
サイト掲載 2014/02/05