玉座に座すのは生気に満ちあふれた、輝くような若者だ。
光を撚り合わせたような金髪に、空の蒼とも海の碧ともつかない深い色合いの瞳をもつ青年を、人は“太陽の愛し子”と呼ぶ。
鮮やかな染料で染め上げられた長布を幾重にも纏い、それを大粒の金剛石が縫い付けられた腰帯で止めた姿は、年若い外見に不相応なほどに王としての威厳に満ちていた。
肩から流れる一枚布は一際鮮やかな深紅で、金糸銀糸を始めとする色とりどりの糸によって美しい鳥の姿が描かれている。七色に輝く翼をもつという不死鳥は国の紋章にも用いられる神聖な生き物であり、その鳥を纏うことが許されるのはただ一人、この国の王だけだ。
大きく肌蹴た胸元を眩い輝石を填め込んだ金細工が飾り、複雑なアラベスク模様を刺繍した裾から覗くサンダルを履いた足にでさえ細作りの金環がはめられていた。
それらの一つ一つが、国の豊かさを、王の権力の強さを象徴している。
赤銅色に焼けた肌と、分厚い布の上からでもわかる鍛え上げられた肉体は、王が武勇に秀でた人物であることを示し、けれどその静かな知性を湛えた瞳が、王の威光がその腕力のみに依るものでないことを裏付けていた。
まさしく王の名を冠するに相応しい青年だ。
けれど。
その笑みの形に弧を描く口元や玉座にいるにも関わらず肘をつき片足を引き寄せた気安い体勢のためだろうか。そこには一人の信頼すべき友と向き合っているような、王への信仰とはまた違った抗い難い魅力があった。
「私の名はイーノック。歓迎しよう、オーリエの使者よ。遠方よりご苦労であった」
広い謁見の間に朗々と響く声は自信に満ち、澄み切っている。
「躁急で申し訳ないが、用件を聞こう。そちらも、一刻を争う話だとお見受けする」
「はっ、お心遣い、感謝いたします」
深々と頭を垂れた使者を、イーノックが目で促す。思慮深い色を湛えた王の目を見据え、使者が口を開いた。
「私は白き都ジェレムより東方に馬を十日駆りし土地にあります、オーリエの地より参りました。かの地は今、日照りで苦しんでおります。実りを告げるはずの雨季にも拘らず降る雨はわずかで、大地は乾きひび割れ、川はその跡を荒野に残すのみとなり、村では作物を育てる水はおろか、民の飲み水でさえも不足している有様です。続く干ばつの影響で今年の作物の収穫は例年の半分以下となり、豊穣を祝う祭を執り行う余裕すらございません。このままではオーリエの民は餓え死んでしまうでしょう。この度は飢えと渇きに苛まれる民の負担を何とぞ減らしていただきたく、このように馬を駆って参った次第でございます」
「求めるのは税の軽減か」
「恐れながら、左様にございます」
使者の話を静かに聞いていた王は、苦渋に満ちた表情で目を閉じた。無言で考え込むような仕草を見せたイーノックは、再びその双眸を開くと控えた従者へと声をかけた。
「すまないが、誰かルシフェルを呼んできてくれないか」
「その必要はないよ」
低く艶のある第三者の声が、イーノックの命令を遮った。
広間の片隅に気配が現れ、僅かな衣ずれの音とともに黒い男が歩み出てくる。その姿にイーノックが目を輝かせ、喜色の滲んだ声を上げた。
「ルシフェル! 来ていたのか。貴方は本当に神出鬼没だな!」
「なに、呼ばれそうな気がしたのでね、使いが来る前に足を運んだまでさ」
落ち着いた調子で言葉を紡ぎながら玉座に歩み寄る男の顔立ちは、その声が持つ老成した響きに反して若い。少なくとも、政にかかわるには少々若すぎるような印象を、その男は周囲に与えた。
「使者殿、紹介しよう。司祭長のルシフェルだ」
王の声にルシフェルと呼ばれた男が一礼する。後ろに撫でつけた宵闇色の髪がはらりと一房、米神にかかった。
身に付けた装飾品が触れ合う澄んだ音が、洗練された所作を際立たせている。
神に仕える者だけが纏える黒衣は、ただ黒く染めただけの布ではない。幾度も幾度も青を重ねていくことで生まれる、夜の深みを帯びた黒色だ。光を飲み込むような黒に、装飾の銀や金剛石の輝きが映える。
有り余る袖をまくりあげた腕には肌を隠すように白い布が固く巻かれており、一見不規則な文字列が書きこまれていた。よく観察すれば、それが神事で用いられる飾り文字であることが分かるだろう。
床を擦るほどに長い布をさばく合間にのぞく足や、ゆったりとした襟刳りから露わになった肌は、隣に並び立つ王に比べれば微細な露出だというのに、酷く神秘的に目に映った。それは、覗くのが纏う黒と対照的な、病的なほどに白い肌であるからだろう。
その表皮の下を流れる鮮血すらも感じさせない白は、この国の民のものではない。
“異国の民と言えども、同じ神を崇める者、これ皆同胞なり”
その教えに従い、この国で民族の違いから差別を受けることはない。だが、たとえ前例があろうとも、異国生まれの司祭に誰もが一度は眉をひそめる。「この異邦人が」と。
そんな彼らであっても、異人の司祭長の姿を見たものは一様に口を噤まずにはいられない。何物にも染まらぬ黒を纏い、恭しく神に頭を垂れる姿は、他のどんな信者よりも神への信仰に満ちている。
幾重にも重ねた黒を飾るのは金剛石と黒曜石、それから僅かな銀細工のみであり、色彩を欠いた姿の中で、純度の高い赤だけが、神を一心に見つめるその瞳だけが何よりも鮮やかだった。
「それで、私に何か用かな? イーノック」
「ああ、すまない。オーリエの地にいつ雨が降るのかを知りたいんだ」
「まったく、私は天気予報士ではないんだが……まぁいい。オーリエ、東方の肥沃地帯か……。オーリエに限らず、この国に雨の気配はないな。星詠みもしてみたが、雨雲の訪れを告げる星はひとつもなかったよ」
「やはりそうか……。すまない、ありがとう」
「いや、構わないよ。王の頼みは断れないさ」
小さく肩を竦めてルシフェルが笑った。いかに司祭長といえども不遜すぎる行動に、イーノックは鷹揚に笑っただけだった。しかしすぐに表情を引き締めると、使者へと向き直る。
「各地で日照りが相次いでいる。王として民が苦しんでいるのを見過ごすわけにはいかない。どれほどの助力ができるかは分からないが、全力を尽くそう」
「はっ、ありがたき幸せに存じます」
「この程度のことしか出来ぬ王で、本当にすまない」
そう言って沈痛な面持ちで目を伏せた王は、圧し掛かる重みに耐える青年の顔をしていた。
使者が立ち去ったあと、大きく息を吐き玉座にもたれたイーノックにルシフェルが声をかける。
「では、私は失礼するよ。あまり根を詰めすぎるなよ?」
「ああ、ありがとう。ルシフェル」
年上の友に、イーノックは薄く笑って答えた。
雨が降らぬのは地方も都も同じこと。
吹き込む風は乾いた熱気をはらんでいて、それが髪を撫でる不快な感覚に辟易しながらも、ルシフェルは窓の近くに置かれた寝椅子に背を預けたまま書物を読み耽っていた。開け放たれた窓を閉めるために立つつもりはさらさらない。
書物の中に興味深い記述を見つけ、ページをめくる手を止めてさらに読み進めようとしたとき、窓から強い風が吹き込んだ。
「ろっと、」
素早くページの間に指をはさんだが、その上に風であおられたページが重なっていく。パタン、と軽い音を立てて閉じてしまった書物を確認する前に、窓のあたりに現れた気配にルシフェルは顔を上げた。
窓の桟に手をかけてよじ登ってくる、金髪の男。その姿を見るたびに思うのだ。ここは三階だ、と。
「なんだ、また来たのか」
「いや、つい、な」
苦笑いで頭を掻くイーノックにルシフェルが小さく息をつく。呆れるべきだと思うのだが、唇は勝手に弧を描いてしまう。さまざまな感情が入り混じった、微苦笑のような表情でルシフェルは昼下がりの訪問者を出迎えた。
身体に付着した砂を払い、窓からの入室を果たしたイーノックはうず高く積まれた書物に囲まれたルシフェルを見て眉をひそめた。
「貴方はまたそんな恰好で……」
「ん? ああ、必要なものを手元に置いていくと自然とこうなってしまってね」
「そちらではない。貴方の恰好、と言ったんだ、私は!」
「暑いんだから仕方ないだろう」
そう憮然と言い切ったルシフェルの姿はと言えば、装飾品の類をすべて外し重たい司祭服を脱ぎ棄てた、あられもないものである。肌蹴ていると表現するには度を越した露出の白い肌が眩しい。
上半身は肌の色が透けるほどに薄い絹を羽織っただけで、下も膝丈の腰巻のみだ。黒の長布を巻きつけ紐で留めただけの腰巻は、細身ながらも薄く筋肉の付いた腹筋と滑らかな腰骨の曲線を隠しはしない。
惜しげもなく肌を晒した姿の中でただ、手首から肘にかけて巻かれた布だけが異様な存在感を放っていた。
「そもそも、露出云々を言うならお前はどうなんだ」
「私は大丈夫だ」
「意味がわからん」
呆れた調子でルシフェルが返したのは、イーノックの纏う布の面積がルシフェルのものとほとんど変わらないからだ。むしろ、イーノックのもののほうが少ないといってもいい。
日差し除けの厚布は被いて来たようだったが、その下は腿の半ばほどまでしかない腰巻だけだ。この格好で王宮からルシフェルの住む星詠みの離宮まで歩いて来たのかと考えると、呆れを通り越した頭痛に見舞われる。
この国、こんな国王で大丈夫か?
「……まぁいい、折角だ。冷茶でも用意しよう」
「そんな、気を遣わなくてもいいのに」
「私が飲みたいんだ」
ルシフェルはそう薄く笑って立ち上がった。
先日干し杏が手に入ったから一緒に出そうか。そんなことを考えながら茶器を棚から取り出した。水出しにすると甘みが引き立つ茶は密かなお気に入りだった。思えばイーノック以外に振る舞った覚えがない。そもそも司祭長が他人に何かを振る舞うという状況自体が少ないせいもそこにはあるだろうが。
東方でも水不足の報告が上がった。南方ではその一月前から被害が出ている。首都は地下を流れる水脈が2本ぶつかる地にあるため、目立った被害はまだない。だがそれも時間の問題だろう。
水不足に国全体が悲鳴を上げ、軋んだ音を立てている。
苦しむ民に心を痛める友の負担を少しでも軽くしてやりたいとは思うが、天候を自在に操ることなど不可能だ。無力感に苛まれながら、ルシフェルは訳もなく腕に巻かれた布を撫でた。
ルシフェルが冷茶の入ったポットとカップ、干し杏を乗せた小皿を器用に持って窓辺に戻ると、寝椅子に腰かけたイーノックは手持無沙汰だったのか、ルシフェルの読んでいた書物を開いていた。
真剣な瞳を乱すことに少々の罪悪感を覚えながらも、軽い声で名を呼ぶ。
「イーノック」
「あっ、すまない。ついつい読んでしまって」
読みかけのその書物は、過去の日照りに関するものだ。周囲にある書物たちも、今回の日照りに関係しそうなものを手当たり次第に集めてきた。
「神殿でも昼夜問わず雨乞いをしてはいるんだがね」
「それでもやはり駄目か」
「なにしろ前例がない。神が何を考えておられるかは見当もつかないが、それに振り回される人の身にもなってもらいたいものだ」
「貴方は本当に……時々とても畏ろしいことを口にする」
神に仕える者の台詞とは思えぬそれをさらりと吐いたルシフェルにイーノックが苦笑した。相手が誰であれ態度を変えないその不遜さが好ましいと思うのはやはり不遜なことだろうか。
「真実を言ったまでさ。まったく神は人に対して配慮というものが全くない」
「ほらまた」
飾らない言葉に笑みを深めたイーノックは、一転して深刻な表情を作った。
「各地で被害の声が上がっている。税を軽くしたところで状況が好転することはないだろう。人身御供などが始まってしまえば……取り返しのつかないことになる」
俯いて考え込み始めたイーノックにルシフェルは赤い双眸を眇め、イーノックの剥き出しになった額にカップを押しつけた。陶器特有のひやりとした感覚に驚いたイーノックが顔を上げる。混乱するイーノックにカップをもたせ、ルシフェルは諭すように言った。
「あまり根を詰めるなと言ったろう? 折角抜け出してきたんだ。ここにいるときくらいはゆっくり休め」
「しかしっ……、いや、そうだな、そうさせてもらおう」
反射に近い勢いで否定の言葉を叫んだイーノックだったが、自身の状況を思い出し大人しく忠告を受け入れた。反論の代わりに受け取ったカップを差し出せば、ルシフェルが冷茶を注ぐためにポットを傾ける。
が、その注ぎ口から液体がこぼれる前にルシフェルはピタリと動きを止めると、ポットをイーノックに押し付けた。
「人が来た。隠れろ」
咄嗟にそれを受け取ってしまったイーノックを立つように促し、部屋の奥の扉を指示した。星詠みのための高楼に続く扉だ。
「ルシフェル、これは、」
「カップが二つあったらばれてしまうだろう。ポットも一人用には大きい」
イーノックにポットとカップを持たせたまま、ルシフェルは彼を奥の部屋へと押しこめた。
そのすぐ後に部屋の扉を叩く音と、控えめにルシフェルの名を呼ぶ声がする。それに応対しながら、ルシフェルは寝椅子にかけたままにしていた長布を羽織った。
誰彼構わず肌を見せているわけじゃないさ。
心の中で誰にともなく呟いて扉を開ける。そこにはまだ若い司祭見習いが立っていた。
「何か用かな?」
「先ほど大臣殿からご連絡がありまして、こちらにイーノック様がいらしてはいないか、と」
「いや、来てないな。どこかで昼寝でもしてるんじゃないかな。どうせまた見合いから抜け出したんだろう?」
「私は伝言を頼まれただけでして、詳しいことは……」
「おや、そうだったか。まぁ、そうだな……書庫など探してみるといいと伝えてくれ」
「かしこまりました」
一礼して去っていくその背を見送り、ルシフェルは部屋へと戻った。
「イーノック、もう出てきてもいいぞ」
「両手がふさがっていて開けられないのだが」
「ろっと、これはすまない」
扉の向こうから聞こえる困り果てた声に、少しだけ笑ったことは秘密にしておこう。
「しかしまぁ、」
冷茶を片手に干し杏を齧りながら、ルシフェルが口を開く。
「お前もよく懲りずに抜け出してくるな」
「仕方ないだろう。午後の謁見が終わった後は視察が入っていたはずなのに、いつの間にか見合いの手筈が整えられていたんだから」
「ふっはは、大臣たちも必至だな。お前もそこまで毛嫌いせずに一度くらい受けてみればいいのに」
軽い調子で言った言葉にイーノックは露骨に眉をひそめて見せた。嫌悪というよりは、困惑や躊躇に近い表情だ。
「どうも女人は苦手で……。それに、中途半端に期待させるのも申し訳ないような気がして」
「なるほど、お前らしいな。しかし大臣たちの用意する女人だ、さぞかし美姫揃いだろうに。一人くらい気になる女人はいなかったのか?」
「美しい……美しいんだろうな、彼女たちは」
「なんだ、ずいぶんと煮え切らない言い方をするじゃないか」
「いや、貴方といると美的感覚が狂ってしまって」
「なんだそれは」
「貴方より美しい女人には会ったことがない」
さらりと落とされた発言にルシフェルはどんな表情を作ればいいのか悩むような仕草を見せた後、呆れたような目配せと困ったような苦笑とが綯い交ぜになった表情で溜息をついた。
「失礼だぞ、それは。私にも彼女たちにも」
「そうか?」
「そうだよ」
なぜそんなことを言われるのか分からないと首を傾げるイーノックにルシフェルは苦笑を深めた。
陽光の金髪に澄んだ青の瞳。精悍な顔立ちは初対面のものに威圧感こそ与えるものの、鷹揚で闊達な内面を知ればそれさえも大きな魅力になる。王という肩書がなくとも女には苦労しないであろう容姿だ。
性格だって悪くない。少しばかり人の話を聞かないが、細やかな気配りもできるし、何より、万物へ向けられるその慈愛は誰の目にも好ましく映るだろう。
本当に、もったいない男だ。
能天気に笑うイーノックは、時々対応に困る。あの玉座での威厳はどうしたと声を大にして唱えたい。
ゆっくり休めと言ったのはルシフェルだが、ここまで緩んだ顔を晒すのはいかがなものか。
冷茶を勝手に注ぎ足したイーノックが、その水色を眺めながら独り言のように言う。
「貴方といるときが一番落ち着くんだ」
だから、そういう台詞は女に言え。きっとどんな美姫でもあっさり落ちるだろうから。
そう思いはするものの、さすがのルシフェルもそこまで露骨な物言いをするつもりにはなれず、けれど素直に認めるのも何か違うような気がしたので皮肉交じりに呟くことにとどめた。
「それは、光栄だな」
「む、本当だぞ。貴方の前でなら偉ぶる必要はないし、肩の力を抜けるんだ」
「別に疑っているわけじゃないさ」
コロコロと表情を変える純朴な青年にルシフェルは目を細めた。
「だが、それは見合いの度に私のところに逃げ込んでくる理由にはならないぞ?」
「う、」
「大体、お前くらいの年なら妻の2人や3人いてもおかしくないだろう。お前の場合、即位してからのごたごたがあったから今までそんな話がなかっただけで。やっと政も落ち着いてきたんだ、妻を娶って世継ぎの問題も早めに解消しておいたほうがいい」
「そういうルシフェルだって妻帯していないだろう」
「私は神職者だからいいのさ」
「神職者だからと言って妻帯してはならないという法はないぞ」
「法ではなく、跡取りの話だよ。王位は世襲制だが、司祭長は違う。今私が死んでも次の司祭長がすぐに選ばれる。だが、王位はそうもいかないんだよ、イーノック。今お前が死んだら空いた玉座には誰が座るんだ」
「なにも王族は私だけではない。伯父上もいらっしゃるし、従弟たちだって、」
イーノックがつらつらと王族に連なる男児の名を上げていく。
「自分の子供に王位を譲りたいという願望はないのか、お前は」
そんなイーノックにルシフェルは頬杖をついたまま呆れの滲んだ視線を投げかけた。
自分の血を引くものを世継ぎにと、それが原因でおこった戦とて数多くあるというのに。
「あまりそういった類のものは感じたことがないな。王位を譲って早く隠棲したいとは常々思っているが」
「……王の責務はそんなに重いか?」
「そう感じることもある。王としての私を頼りにする民がいることも分かっているし、それを投げ出したいとは思わない。ただ、ふと私は地を耕しているほうが性に合ってるのではないかと思うことがあるんだ」
確かに人の上に立つ器を持ちながら、若き王は地に根ざして生きることを憧れる。瞳を閉じればそんな生き方をする彼が瞼の裏に容易に想像できるような気がして、ルシフェルはイーノックに少しばかりの羨望を抱いた。
ルシフェルの視線に気づかないままに、イーノックはきらきらとした瞳で夢を語る。
「それから、放浪の旅、というのもやってみたいんだ。一人の人間として、この国を見て回りたい」
「ああ、それなら何度も聞いたよ」
「幼いころからの夢なんだ」
ああ、それも知っている。
イーノックがルシフェルの部屋に逃げ込む理由が見合いではなく、勉学であったころから語られる夢物語だ。
旅がしたい。世界が見たい。
それを当時のルシフェルは窮屈な王宮からの逃避手段としかとらえていなかった。勉学から逃げてルシフェルのもとに来るように、現実から逃げて旅への憧れを膨らませているのだと。
その認識が誤りであったことは、イーノックと過ごした短くはない年月の中で気付いた。
旅への憧れはきっと、彼の心が自由の本質を愛するからこそだ。
「貴方と旅ができればいいと思うのは、おこがましいことだろうか」
「王の命とあらば」
「そうじゃない!」
わざと言葉の表面だけを拾ってルシフェルが言えば、イーノックは案の定ムキになって声を荒げた。
ばかだなぁ。答えならとうの昔に渡してあるじゃないか。
今よりもずっと高く幼い声が「一緒に来ないか」と、そう告げたとき、己は是と答えたのだから。
「まぁ親友たっての願いとあらば、司祭長の地位を捨てて同行するのもやぶさかではないがね」
今もその答えは揺らがないさ。
「さて、お前もいい加減戻るべきじゃないのか?」
イーノックが訪ねてきてから随分と時間がたっている。日が長いこの時期は夕暮れも遅いが、窓の外に見える景色に落とされた影はその長さを着実に伸ばしていた。
「ああ、つい長居をしすぎてしまったな。貴方も仕事があるだろうに、すまない」
「これくらい構わないといつも言っているだろう。いつでも来い。まぁ、もう少し見合いには顔を出すべきだとは思うがね」
「努力はしよう……」
一気に気色の悪くなったイーノックに苦笑する。苦手という言葉に偽りはないらしい。
「じゃあ、失礼するよ」
イーノックが立ち上がって窓辺へと歩いていく。やはりそこから帰るのか。
わざわざ窓を出入り口にしなくても見つからずに出入りする方法はある気がするのだが。
それを口に出したところでまともに聞き入れはしないだろうとルシフェルはあえて口を開くことはせずに、その背を見送るためにイーノックの後に続いた。
「っと、忘れていた」
窓の桟に足をかけたところでイーノックが突然振り向き、ルシフェルの手首を乱暴につかんだ。白い布で包まれた、露出しない肌。
「ぃっ!?」
声にならない悲鳴をあげて大きく肩を揺らしたルシフェルにイーノックがやはりかと呟く。手首をつかむ力を緩めて、羽毛で撫でるような軽さで腕を撫でた。
「今あなたが何をしているかは、あえて聞かない。いくら私が王とはいえ、貴方と神の間に介入することはできないから。けれど、貴方を心配する人間がここに一人いることを、忘れないでくれ」
「あ、ああ、というか、気付かれていたんだな……」
呆然とルシフェルが呟いた。気付かれないようにと、うまく振る舞っていたつもりだった。
「気付くさ。貴方は私抜きで事を進めたがるから、注意深く観察していないと」
流れるような動作でルシフェルの手首を引く寄せたイーノックは、その白に軽く唇を落とした。
「頼むから、無理だけはしないでくれ」
そうとだけ言って、ルシフェルが反論を返す前に窓から飛び降りてしまう。
かすかな着地音に慌てて窓に近寄れば、西日に照らされた金髪が王宮へと駆けて行くところだった。
「それは……少々無茶な話だよ、イーノック」
聞こえるはずがないと知りながらそう呟いて、ルシフェルが白い布が巻かれた腕を撫でる。じくじくと存在を主張する痛みに眉をひそめながら、布を解いていった。二巻き分解けば純白には赤黒い染みができてきて、それは内側に行くに従って大きくなっていく。
布をすべて解き終えて当て布を外せば現れるのは見るも無残な傷跡だ。
手首から腕の中ほどにかけて幾重にも走る鋭い刃物で切り裂いた傷は、塞がりかけ赤く跡を残すのみのものや今もなお血が滲み膿を出し続けるものなど様々で、その回復状態に差のある傷が、自傷行為が一度や二度ではなく断続的に続いているものであることを示していた。
解いた布で膿を適当にぬぐって、ルシフェルは次の行動に移った。取り出したのはガラス製の小瓶と装飾が施された祭儀用の短刀だ。片手に収まるくらいの広口の小瓶を床に置き、ルシフェルが鋭利な刃物を腕に滑らせる。
す、と白い肌に赤い線が生まれ、溢れだす血がやがて球を作って流れ落ちた。ひたん、ひたん、と小瓶を満たしていく己の血を、ルシフェルは無感動な瞳で眺めていた。
しばらくすれば容量のさほどない小瓶は溢れんばかりの鮮血で満たされた。
それに同じくガラス製の蓋をして、ルシフェルはそれを供物を捧げるために用いられる盆の上に乗せた。上から厚手の布をかぶせてしまえば、何が乗っているかは分からなくなる。
それを抱えて、ルシフェルは自室を出た。無論黒衣の神官姿だ。
向かうのは屋外に設けられた祭壇だ。神に祈るための祭壇ならば、神殿の奥にも設けられている。にも拘らず清廉な空気に満たされた場所以外にも祭壇が必要だったのは、そこで行われる祈りが清められた空間を汚すものだからだ。神への供物であっても死を神殿の中に持ち込むわけにはいかない。
どす黒い染みの残る祭壇に、ルシフェルが恭しく盆を載せる。
小瓶の蓋を開けて中身を溢せば、祭壇の上にまた一つ染みが増えた。
「東方の地に、雨を」
祈りのように落とされる言葉には、けれど隠しようのない闇がちらついていた。
何故何故何故―――!
言葉が警鐘のように脳内にひらめく。それを振り払って、ルシフェルは祈りの言葉を口にした。懇願にも似た、祈りだった。
これが気休めにしかならないことを、知ってはいるけれど。
日に日に深刻さを増す水不足に、イーノックは頭を抱えた。己の無力さに苛まれる。
時折雨は降るのだ。けれど、大地を潤すまでには至らない。当面の飲み水と、作物を育てるための僅かばかりの水をもたらすだけの雨。そんな雨でさえ、今では大きな恵みだった。
南方、東方の地に続き、首都であるジェレムでさえも、水不足が深刻化してきている。まだ地方で生贄を立てて雨乞いをしたという報告は上がっていない。それだけが救いであるような気がした。
自室で休んでいても焦りばかりが募って休息は取れない。ルシフェルのところに行こうか、なんて甘えが顔を出したが、見合いからならともかく職務を放り出して逃げてきたイーノックを温かく迎えてくれるほどあの友人は甘くはない。
連日の疲れをため息とともに吐き出して、イーノックは目頭を押さえた。
ふとそこでイーノックは部屋の外に人の気配があることに気付いた。普段ならばもっと早く気づけただろう気配を悟れなかったことに内心で舌打つ。
数秒思案したような間の後に、扉をたたく音がした。イーノックが入室の許可を出せば、入ってきたのはまだ少年の域を出ない司祭見習いだった。珍しいな、と言葉にせずに呟く。ルシフェルはともかくとして、神殿の人間はあまり王宮には出入りしない。
「何か、用かな?」
「ルシフェル様がお呼びです。御同行ください」
「ルシフェルが? 彼が直接来ないのは珍しいな」
「なんでも、手が離せない用事があるので、イーノック様にお越し頂きたいと」
「そういうことならすぐに行こう。支度をするから、少し待ってくれ」
執務と執務の間の僅かな休憩時間だったため、衣服をそこまで着崩していたわけではない。しかし神殿は王宮の敷地内にあるとはいえ、王の手が届かない場所、神の治める領域だ。中途半端な格好で行ける場所ではない。
不死鳥が描かれた赤布を肩から掛けて、イーノックは見習いの少年を振り返った。
「よし、行こうか」
「申し訳ありません、剣を、」
「おっと、これはすまない」
神殿に入る前に見習いの少年に指摘され、イーノックはようやく自分が剣を佩いたまま神殿に来てしまったことに気付いた。
「お預かりします」
「ああ、頼む」
腰帯から外した偃月刀を少年に手渡してイーノックは神殿へと足を踏み入れた。
見上げれば抜けるような青空。雨の気配はない。
当たり前になりつつある光景にため息をつき、ルシフェルは足早に神殿へと向かった。近頃は傷みがひどくて左腕がまともに動かせない。破傷風には罹っていないが、いつ腐り落ちてもおかしくないような気がした。貧血もひどい。イーノックに指摘された時は隠し通せているつもりだったが、今の状態では不調はおおよそ隠せるものではなくなっていた。
「ルシフェル様? どうしてこのような所に」
「私が神殿にいるのはおかしいかな?」
声をかけてきた司祭に目を細めて返せば、司祭はあわてて否定を示すように顔の前で手を振って見せた。必死になる様子が少しおかしくて、少し気に入らない。誰も彼もがルシフェルの機嫌を損ねることを極度に恐れている。
「先ほどイーノック様をお見かけしましたので、ご一緒ではなかったのかと思いまして」
「イーノックが? 聞いてないぞ」
「あれ? おかしいですね。確かに中庭のほうに行かれるのを見たんですが……」
「中庭……?」
ああ、まさか。
最悪の考えが頭をよぎる。
「すまないが、私はこれで失礼する。後は頼んだ」
「えっ、ちょっと、ルシフェル様?! 頼んだって、何を、」
なおも言い募る司祭を無視して、ルシフェルは中庭を目指して駆けだした。ゆったりとしたつくりの司祭服が動きづらい。長い裾に足を取られながらも、ルシフェルは走り続けた。ただただ、手遅れにならないことを祈りながら。
「これは……なんのつもりかな?」
イーノックはじりと後退さったが、立方形をした一枚岩にそれ以上の後退を阻まれた。それは神殿の中にある祭壇によく似ていた。こんなものが屋外にあったなんて知らなかった。飾り文字が彫り込まれたそれに染みついた赤黒い何かが不吉だ。ああ、これはもしかしなくても血痕だろうか。
そんな方向に思考を飛ばしてしばし現実逃避をする。
目の前には、イーノックが預けた偃月刀を構える見習いの少年がいた。震える切っ先をイーノックに突き付けて少年は何も語らない。
王に剣を向けることは大罪だ。たとえそれが年端もいかぬ少年の行為であっても。
けれど、なぜだろうか。
その理由によっては、迷いのあるその剣をこの胸に引き寄せてやってもいい気がした。
私は、終わりにしたいのだろうか。
「貴方が、……っ」
震える喉が吐息を零す。
「貴方がしねば、雨が降るんだ」
紡がれた予想外の答えに、イーノックは言葉を失った。
雨が降る? この、渇いた土地に?
自分一人の命でそんな奇跡のようなことが起こるものかと理性が否定したが、相手は神なのだ。疑うことも、拒むことも、慇懃な信者であるイーノックはしなかった。
「それは、神の意志なのか?」
「貴方が一番よく知っているはずだ。ルシフェル様に預言を捻じ曲げさせたのは、貴方だろうに!」
「預言? 何のことだ、ルシフェルは何も、」
「当たり前だ。お前には言っていないからな」
会話に割り込む艶のある声。いつものように神出鬼没に。まるで天から舞い降りたような唐突さで、彼は現れる。
「預言を曲解したのも、それに伴う被害を黙認したのもすべては私だ。だから、君が殺すべきはまずは私だろうね」
薄く笑いながら、ルシフェルはまるで今日の天気のことを話すような軽さで言った。少年が握る偃月刀の揺れが激しくなる。
カシャン、と何かが壊れる音を、イーノックは確かに聞いた。
「う、ぁ……ぁぁあああああ――――――!」
唾液を撒き散らして少年が絶叫する。錯乱した瞳はもはや何物も映してはいなかった。剣の切っ先がルシフェルに向く。滅茶苦茶な構えで突進してくる少年をルシフェルは避けることなく正面から受け止めた。両手を広げ、我が子を迎え入れるようなその仕草は、万物を愛する神が救いの手を差し伸べる宗教画に、酷似していた。
銀の輝きはあっけないほどにたやすくルシフェルの腹部に吸い込まれていった。衝撃によろめきながらも、ルシフェルが胸に飛び込んできた少年を優しく抱きしめる。
「ぅ、あ、っ、ぁ」
「そう、これが正解だ。間違っても王に剣なんて向けるものじゃぁ、ない」
諭すように少年の頭を撫でて、ルシフェルはその血の気の失せた手のひらで少年の視界を閉ざした。少年の体から力が抜けて、その場に崩れ落ちる。閉ざされた瞳は眠っているようでもあり、死んでいるようでもあった。
ルシフェルの体を遮っていた少年が消えたことで、その腹部から生えた刀剣が露わになる。鮮血の伝う刀身の飛び出した長さが予想以上に短いことに、イーノックは息をのんだ。手に馴染んだ偃月刀だ。ルシフェルの体内にある刀身が、その薄い腹部を貫通するのに足る長さであることなど、分かり切っていた。
「ルシ、フェル……?」
「ああ、見苦しいところを見せてしまったな。すまない。悪いんだが、もう少し待っていてくれ」
「その、少年は、」
「母親を、水不足による飢饉で、亡くしたそうだ。つまり、は、私が殺したことに、なるのかな?」
声をあげて笑おうとしたのだろう、その薄い唇から吐息だけが漏れた。見る間に生気を失っていくその白い顔にイーノックが青ざめて駆け寄ろうとする。それを制してルシフェルは腹部の剣に手をかけた。
「ルシフェル、やめ、!」
イーノックの制止が入る前にその剣に力を込めて引き抜いた。
少量の肉を抉り取りながら剣が身体から抜ければ、栓を失った血管から血液が噴き出す。
今にも崩れ落ちそうな顔色をしながらも、ルシフェルはよろめきがちにイーノックへと近づいた。否、近づいたのはイーノックではなく、その背後にある祭壇。
点々と血痕を地に残しながら、ルシフェルは倒れ込むように祭壇に手をついた。喉を焼く灼熱に咳きこめば、祭壇にべちゃっと血の海が広がる。
「ルシフェル!それ以上動いては傷が……!」
差し出されるイーノックの手をルシフェルは弱弱しく跳ね返した。もうほとんど力など入らないのだろうそれに抵抗することは容易い。だが、そこには腕力ではない何かが込められているような気がして、イーノックは唇を噛みながらその痛々しい姿を見守った。
祭壇についた手で体を何とか支えながら、ルシフェルは自分の吐いた血で祭壇に飾り文字を書きなぐった。
「どうか……っ、雨を……」
錆びついた喉で、叫ぶ。
ずるりと祭壇についた手が滑って、ルシフェルはその場に崩れ落ちた。地に伏す直前に太い腕が差し入れられ、体を支えられる。
お前のほうが泣き出しそうな顔をしているな、イーノック。
そう揶揄ろうとしても、声は出なかった。
ばかだなぁ。血だらけの私なんて抱きしめたら大切な不死鳥が汚れてしまうのに。そんなことを考えた。
「どうして……」
締め付けられる喉から、イーノックは無理矢理声を絞り出した。
問いたいことはいくらでもあった。けれど、どうしてと、その短い言葉しか、紡げない。
そんなイーノックにルシフェルはかすかに口の端を持ち上げ、微笑みととれる表情を作った。
どうしてと、その問いに答えるにはきっととても長い時間がいる。長い長い話になるだろうから。
けれど、ああ、そうだな。霞み始めた視界は残り時間が少ないことを示しているし、一言、一言だけ。
「私、にも……譲れないもの、が、ある、の、さ……」
泥の中に緩慢に沈んでいくような意識の中、ルシフェルは重たい腕をイーノックへと伸ばした。視界に入った手は土気色で、しかもべったりと血が付いていた。少し躊躇って、それをイーノックの頬に滑らせる。赤銅色の肌になおも赤い線を残して、音にならない声で言った。
「 神を信じたことなんて、一度もなかったよ 」
ぱたりと、力を失った腕が地に落ちる。
熱を失っていく身体にイーノックが呆然とその名を呼んだ。
「るしふぇる……?」
か細い声に、彼が持つあの朗々とした響きはない。
ああ、失ったのか、彼を。
ひたん、と血の気のないルシフェルの頬に水滴が落ちた。それの出所を確かめるように、イーノックは天を仰いだ。
蒼く高く澄んだ青空は、そこにはない。
天を覆い尽くす雨雲から、ただ涙が落ちるばかりで。
久方ぶりの、恵みの雨だ。
「―――――――――――――――っ!!」
声にならない咆哮が強まる雨脚にかき消されていく。
降り注ぐ雨が容赦なく二人を打つ。
頬を伝っていく水滴は零れた感情のようだった。
灼熱の太陽の下、荒野を進む2頭の馬がいた。
旅人らしき風体の男がそれぞれの馬に乗っている。
二人のうち大柄な方の男が砂覆いの布をずらして空を睨んだ。布の陰から覗く瞳は、見上げた空と同じ透き通った青をしている。
「暑い……。雨はいつになったら降るんだ?」
隣で馬を操る男に問いかければ、男は同様に砂覆いをずらして空を見た。
「まったく、私は天気予報士ではないんだが……まぁいい、真似事くらいならできる。そうだな、風も強いようだし……夕方あたりには一雨来るんじゃないかな」
「なっ、次の街に着くのは明日の予定なのに! 早く雨宿りできる場所を探さないと!」
「おい、勝手に行くな、イーノック!」
「貴方だって濡れたくはないだろう、ルシフェル!」
太陽以外見守るもののいない大地に、二人の声がこだまする。
悪戯な風が二人の髪をかき回して吹きぬけて行った。
pixiv掲載 多分2010年12月ごろ