ルシフェル<悪魔>と呼ばれた。
神の御言葉を騙る傲慢さが、神代の時代に同じ罪で地の底に堕とされたその悪魔に通ずると。
『この国は滅ぶ』
五つになるまで一度も言葉を発しなかった幼子が最初に吐いた言葉がそれだった。
以来、災いを恐れた人々の手によって神殿の奥へと幽閉され、再びその子供が遮るもののない青空を見たのは、彼が12歳の時。予言通り、隣国に彼の祖国が滅ぼされた時のことだった。
終戦を、自国の敗北を告げる鐘の音が響くのをルシフェルは神殿の書庫で聞いた。
呆気ないほど簡単に滅んだものだ。そんなことを思った。自らの予言が真実になったことへの喜びはなかった。ただただ、傍観者の瞳でルシフェルは一国が滅びゆく様を眺めていた。
愛着も執着も感じない。
そんな彼の耳には、征服者の雄叫びも、亡国の民の嘆きも、等しく虚無なものとしか響かなかった。
ルシフェルが隣国へと引き渡されることが決まったのは、その翌々日のことだった。
曰く、「幼い時より神殿に暮らし、神に仕えてまいりました少年を貴国の神に奉げることによって、我らの神々の貴神への帰属とさせていただきたく存じます」と。
つまりはルシフェルに「“我らの神々”が隣国の神に屈したことの象徴」になれというのだ。神に敵対した悪魔の名を持つルシフェルに。
禊をさせられ、上等な服を着せられ、剥き出しの手足を豪奢な輝石で飾られ、ルシフェルは異国の王へと引き合わされた。
かの国では不死鳥を描いた赤い長布を纏うことが許されているのは王だけだと以前書物で読んだ記憶があったから、その壮年の男が王であることは理解できた。金髪金眼、赤銅色の肌。威風堂々と言う言葉がよく似合う男だった。
頭を下げるように促されて、ルシフェルは大人しくそれに従った。
再び顔を上げれば王が笑って手を差し伸べていた。
「では行こうか。幼い体で長旅はつらいだろうけれど、どうか耐えて欲しい」
王の言葉にこくりと頷く。頑として言葉を発しようとしないルシフェルに王が苦笑した。
大きな手で手を取られる。大きく分厚い、覇者の掌だった。体温の高いそれに戸惑いを覚えながらも、ルシフェルは手を引かれるままに王に続いた。
けれど途中でふと足を止める。ルシフェルは振り向いて自分を広間まで連れてきた神官を見た。それを名残惜しさと捉えた王もまた、足を止めた。
その赤い瞳で神官を睥睨し、ルシフェルは淡々と告げた。自国の言葉で、王に意味を悟られぬように。
「次の既朔の夜、幼子が死ぬ」
悪魔のかたる神の御言葉に神官の肩が怒りで震えた。
いつもならばすぐに降りあげられる腕は、神官の理性によって押さえこまれている。代わりに忌々しげな眼をルシフェルに向けながら苦々しく罵った。
「この毒吐きが」
これが最後に聞く母国の言葉か。漠然と、そう思った。
それに対して痛む心を、ルシフェルは持ち合わせてはいなかったけれど。
「黒いの、名前は?」
「……ルシフェルと呼ばれていた」
王の問いかけにルシフェルがしぶしぶ口を開く。きっと複雑な表情をされるだろうという予感があった。
しかしルシフェルの言葉に王は安心したような表情をした。それを奇妙に思っていると王が笑いながら口を開く。
「先ほどからだんまりだったからね。言葉が通じないとかと思って焦った」
「ああ、貴国の言葉ならほとんど話せるはずだ。まぁ、独学なのでおかしい点があるかもしれないが、その時は指摘してくれ」
「独学にしては随分と流暢だ。語学の才があるのだろうね」
そう言って王が頭を撫でた。少し無骨な仕草は、遠い日の父に似ているような気がした。
顔すら覚えていない生みの親をいまさら思いだしてどうなる。そう考えれば名前さえ記憶にない父の残像は闇へと沈んでいった。
「とにかく言葉は問題なし、と。あとは、何か神殿に取りに行きたいものはあるかい? あるようならば時間を取らせよう。何なら今でもいい」
「当面の着替えを取りに行きたいのだが、いいだろうか?」
「それくらいならこちらで用意するけれど?」
「なら、それ以外は必要ない」
「そうか。無欲だね」
違う、そうではない。心の中で否定の言葉を呟いたルシフェルだったが、それを口に出すことは何となく憚られた。
無欲なのではない、無関心なだけだ。
そう告げることができれば、少しは楽になっただろうか。
気だるげに瞳を伏せたルシフェルに気づくことなく、王は続けた。
「ルシフェル、君、年はいくつだい?」
「先月12歳になった」
「そうか、じゃあイーノックより2つ年上なんだね」
「イーノック、とは?」
「私の孫だよ。これがもう可愛くて可愛くて……どうしたんだい? ルシフェル」
初めてあからさまな感情を露わにしたルシフェルに王が問いかける。ルシフェルの表情には確かな困惑が浮かんでいた。
「いや、貴方にそんなに大きな孫がいることが意外で……」
「ああ、私が16の時の子供が17の時に授かった子でね。年も近いから、もし会う機会があったら仲よくしてあげて欲しい」
期待を込めるように王がルシフェルの手を握る力を少し強めた。
覇者の掌は孫を愛おしむ祖父の掌でもあるのだと知った。
慣れない馬に揺られ、慣れない長旅をした末にたどり着いた都。周囲から湧き上がる歓声。
己だけが異物なのだと、そう思い知らされた。
だからどうしたと問われてしまえばそれまでだったが。
“神に捧げる”などという表現をするから生贄にでもされるのかと漠然と考えていたが、どうやら神に仕えることを示していたらしい。都に到着して早々に司祭見習いになるための儀式が行われた。
この国の宗教について詳しく知っているわけではなかったが、与えられた一人部屋と、禁書の収められた書庫の最奥の鍵が、一介の司祭見習いには恵まれ過ぎたものであることくらいはルシフェルにも理解できた。
いつだったか、優遇の理由を、王に問うたことがある。尤も王は、
「才のある者を伸ばしたいと考えるのは当たり前のことだろう? 心おきなく学び、望むなら得た知識をこの国に還元しなさい」
そう笑って穏やかにルシフェルの頭を撫でるばかりで明確な答えを与えてはくれなかったが。
その時からルシフェルは国の最高権力者がうやむやにした答えを求めることをやめ、学問に打ち込むようになった。生来、知識を取り込むことは好きだ。それを己の中で消化していく工程も。
王はと言えば、ルシフェルが神殿で司祭見習いとして生活し始めてからも時間を見つけてはルシフェルのもとを訪れては孫自慢をしたり、時折ルシフェルが学んだことについても耳を傾けてくれたりする。
そんな、都の気候にも慣れ、書庫に入り浸ることに躊躇いもなくなってきた頃の事だ。
「貴方は司祭見習いの方だろうか?」
書庫で書物に没頭している最中に突然声をかけられ、ルシフェルはがばりと顔を上げた。声の主を探してきょろきょろと周囲を見回せば、蒼い空が広がっているはずの窓にひょこりと光る何かが顔を出している。もちろんよくよく見ればそれは発光などしていなくて、艶のある金髪が太陽を反射して輝いているだけだった。
そこにいたのは子供だった。
ルシフェルと同じ年頃の、いや、ルシフェルは平均よりもずっと小柄であるからおそらくルシフェルよりも1,2歳年下の少年が、窓から顔を覗かせていた。きらきらとした笑顔でこちらを見ている。
黄金色の髪と額紐に織り込まれた瑠璃が光を受けて輝き、その下には、深くけれど透き通った青色の瞳。
よっ、と窓の桟に手をかけ少年は室内へと転がり込んできた。おい待て、ここは3階だ。
剥き出しの上半身には赤土を溶いて作った顔料で描かれた文様が踊り、腰布からは生傷の多い脚が飛び出していた。血の滲んでいる腿の裂傷はここまで登ってくるまでに付いたものだろう。
額紐と胸に描かれた文様は成人前の子供を災厄から守るまじないだ。ルシフェルも現在は同じような格好をしている。違うことと言えばルシフェルの額帯に織り込まれた輝石が黒曜であることと纏う腰布の色が深みのある青色であることくらいだろう。
青い腰布は司祭見習い特有のもので、修業を積むごとに更に一つ青を重ねた色を纏うことが許される。重ねた青が宵闇の色になった時、一人前の司祭として認められる仕組みだ。
「失礼なことをお聞きするが、異国の生まれだろうか?」
困惑するルシフェルを余所に少年が首をかしげる。その仕草が、見知った誰かに似ていた。誰か、じゃない。その顔に浮かぶ面影は確かにあの人のものだ。
そうか、彼が。
あの威厳に満ちた覇者を孫好きの徒人に変えてしまう少年。名は、確か、
「イーノック?」
「私を知っているのか?」
「王がね、よく君のことを話しているよ。とてもよくできた孫だと」
「そうか、貴方はおじい様の知り合いなんだな。名前を、聞いてもいいだろうか?」
イーノックの問いかけに答えようとしたルシフェルは口を開き、そこで一瞬動きを止めた。自分の名前を吐き出すだけの簡単な動作に躊躇いを覚えたのはこれが始めてだった。いまさら悪魔の名を告げることを躊躇するなんて馬鹿げている。そう言い聞かせて言葉を紡いだ。
「ルシフェル、だ」
声が震えてないかなんて考えるほど臆病に、自分はいつからなったのだろう。
何を恐れるというのだ、今さら。
「そうか、美しい名前だな」
一瞬、皮肉かと思った。けれど微笑むイーノックの瞳は澄んでいて、とても冗談を言っているようには見えなかった。
ムキになった。訳もなく。
「美しい? 私の名前が? この名は、ルシフェルは、悪魔の、」
「『明けの明星』」
半ば叫ぶように吐き捨てようとしたルシフェルの言葉をさえぎって、イーノックが笑った。
「太陽よりも早く目覚めて働く民を見守る星の名だ。とても綺麗な響きの名前だと、私は思うのだけれど……きっと貴方の両親もそんな風に考えて名付けたんだろうな」
そもそもこれは親からもらった名などではないし、本来の名前だってとうに忘れてしまっているし、ルシフェルの由来は明けの明星などではなく正真正銘悪魔の名から取られたものだし、それを目の前の少年に告げるのは容易いことだったけれど。
震える喉を言い訳に、ルシフェルはそれ以上何も言わなかった。
「もう知っているとは思うが、私はイーノック。よろしく、ルシフェル」
心が、震えた。
ルシフェル<悪魔>とルシフェル<明けの明星>の響きの違いを初めて知った。
こんなにも暖かく響く自分の名を、初めて聞いた。
声をあげて泣きそうだった。
「ル、ルシフェル? 大丈夫か? とてもつらそうだ」
「いや、大丈夫だよ、問題ないから」
問題など、あるものか。俯いてそう呟いた。
嗚呼、ただ、溢れる感情のやり場が見つからないんだ。両手に収まりきらない感情を抱えた経験など、なかったから。
名前一つ呼ばれただけだというのに情けない。そう自分を叱責することで何とか自分を保った。
表情を取り繕う術は、身につけている。ルシフェルは薄い笑みを唇に刷いてイーノックに問いかけた。
「ところで……こんなところに何か用かな? イーノック」
「実は、授業から抜け出してきたんだ」
少しばつの悪そうな顔をしてイーノックが言う。
「書庫は面白い書物がたくさんあるし、身を隠せる場所もたくさんあるからよく来るのだけれど、今日は貴方がいたから……思わず声をかけてしまった」
「そういえば、質問の答えがまだだったな。生まれは北方だ」
「やはりそうか! 見たことのない髪の色をしていたから、どこの出身なんだろうと思ったんだ」
イーノックが顔を輝かせた。語られる言葉は取りようによっては中傷にもなりえるはずなのに、内包するのは純粋な好奇心だけだ。
「美しい髪だな。夜空の色をしている。それに目も! 綺麗な色だ」
「そうか? 血のようで気味が悪いと言われたよ」
ようやく、ささやかな逆襲ができた。そうルシフェルが思った矢先にイーノックが「そうだろうか?」と異議を唱える。
「私は、血の色を気味が悪いとは思わない。美しい、命の色だ。それに、貴方の瞳の色は血の色と言うよりも夕日に似ている気がする。光の加減で、金色がかって見えるんだ」
ぐぃ、とルシフェルの顔を覗き込みながらイーノックが言った。間近で見た瞳はわずかに翡翠の混じった形容できない青色をしている。うつくしい色だと、素直に思った。
「……褒め言葉として受け取っておこう。ところでイーノック、足の傷は大丈夫か?」
「え、足? どこだ?」
指摘されて初めて気づいたようにイーノックが自分の体を見下ろす。
「ほら、裾のあたりに」
「ああ! 来るときにぶつけてしまって……こんなに酷かったのか」
ルシフェルが見たときには血が滲んでいるだけだったそれは傷口に沿ってミミズ状に腫れあがり、打撲を伴う傷だったためか赤紫に変色し始めていた。
「湿布薬と包帯を持ってこよう。少し待っていてくれ」
そう言って腰を上げたルシフェルをイーノックが申し訳なさそうに引きとめた。
「お気持ちはありがたいが、そこまで迷惑をかけるわけには、」
「見ていて痛々しいんだ。それに、傷を癒すのも司祭の仕事だからね」
少し笑って、ルシフェルは書庫を後にした。
湿布薬と痛み止め、清潔な布、それから平癒の護符。手当てに必要なものを一通り抱えてルシフェルは書庫へと戻った。倉庫との往復の間、誰とも会わなかったのは幸いだった。見つかったら何を言われるかわかったものではない。
「待たせたな、イーノック」
「ああ! ありがとう」
ルシフェルが書庫に入りながら声をかけると、イーノックは慌てたように読んでいた書物を閉じた。古びた装丁のそれには見覚えがある。確か、各地の伝承をまとめた書物だったはずだ。
「伝承に興味があるのか?」
「伝承と言うよりも、各地の風土だとか、その地に根付いたものが面白いと思うんだ。私は都と狭い世界しか知らないから……こうやって少しでも見分を広げたいんだ」
書物の表紙を撫でながらイーノックが笑った。よく笑う奴だ。
「ほら、傷を見せてみろ」
「すまない」
「なぜ謝るんだ。少し沁みるかもしれないが、動くなよ」
少し声の調子を落として謝罪の言葉を口にしたイーノックに苦笑しながら、ルシフェルは傷口を確かめた。
屋外でできたためか汚れている傷口を濡れた布でぬぐう。滲んでいた血も綺麗に拭き取れば小さいながらもぱっくりと裂けた傷口があらわになった。表皮の下の薄紅色の肉が生々しく曝される。そこに殺菌効果のある生薬を塗り込めれば、「ぃ!?」と声にならない悲鳴が頭上で漏れた。身体を強張らせて声を耐えているイーノックをルシフェルはちらりと見上げた。
なるほど、忍耐強さもあるらしい。
大の大人でも悶えるほどに沁みるという生薬を選んだのは、痛みの分効能も高いことと、僅かばかりの嫌がらせを込めてだった。先程から調子を狂わされている意趣返しにと、そう思ったのに。
傷口に綿紗を押し当て、その上から湿布薬を塗った布と護符を重ねて包帯で巻いてしまえば手当ては完成だった。
「よし、出来たぞ」
「ありがとう、ルシフェル」
巻かれた包帯を確認するようにイーノックが足を曲げ伸ばしした。健康的な赤銅色の肌に白い包帯は酷く不釣り合いで、ルシフェルは悟られないように小さく眉をひそめた。
「ルシフェル……? どうかしたのか?」
ああもう! だから何故気付く!
「いや、なんでもないよ」
にこりと唇を笑みに形取ったのはほとんど意地のようなものだった。イーノックはまだ何か言いたげな目をしていたが、諦めたように眉尻を下げて笑った。
「なら、いいんだが……。ところでルシフェル、お礼は何がいいだろう?」
「礼?」
「わざわざ手当てをしてもらったんだ。何かお礼がしたい。私にできることなら何でもするから」
そうルシフェルに詰め寄るイーノックの眼には強い意志が浮かんでいて、ちょっとやそっとでは諦めてはくれなさそうだった。それにあえて挑もうという気分にはなれず、ルシフェルがそうだな、と口元に手をやって考え込む。
「本当に、なんでもいいのか?」
「ああ、もちろん! と言っても私にできることなど限られているんだが、」
「なら、明日もここに来てくれないか?」
なるだけ軽い調子で言ったつもりだ。なのに酷く当惑した様子のイーノックに、ルシフェルは軽く眼を伏せた。
「無理にとは言わないさ。それがだめなら、そうだな、」
「え、あ、すまない、違うんだ、ただ、それじゃ貴方へのお礼にはならないなと思って、」
慌ててイーノックが否定する。両手を大きく振って否定を示すしぐさがなんとなくおかしかった。
「私から明日も来ていいか聞くつもりだったのに、先を越されてしまったな。貴方がいいというのなら、いつでも来よう。だから、お礼は何か他のもので頼む」
「……すまない、突然では思い浮かばないな」
「何か、欲しいものとか」
「特にないな」
「そうか……貴方は無欲なんだな」
無欲なのではない、それ以上は何か途方もないようなものを要求してしまいそうで怖いだけ。それが何かはわからない。わからないからこそ、おそろしい。
「では、また明日来るよ」
「ああ、楽しみにしている」
感情に任せて微笑めば、イーノックは少し驚いたような顔をした後最上の笑顔を浮かべた。
「貴方はそうやって笑っているのが一番いい。まるで神の御使いのようだから」
そう言い残して、イーノックは軽やかに窓の外へと身を投じた。
怪我をしているのにそんなことして大丈夫かだとか、男に対してその発言はどうなんだだとか、訊きたいことはいくらでも溢れてきたがとりあえずは。
この火照った頬の鎮め方を誰か教えてくれ!
pixiv掲載 多分2011年1月ごろ