la Pucelle

私が初めてあの人にお会いしたのは、私が13歳の時だったと記憶しています。

その日私は森近くにある父の畑で働いていました。
ちょうど、正午くらいだったと思います。
私は誰かの悲鳴を聞きました。
森の奥から響いてきたその悲鳴は恐ろしくもありましたが、私は何故か声のした方へと駆けだしていました。

その後のことは、今でも鮮明に思い出すことができます。

森の奥へ走って言ったその先に、天使が倒れていました。
のちに私は彼がそこに倒れていたのは崖から足を滑らせてしまったからだと知るのですが、当時の私にはその人が、何かの弾みで天から落ちてきてしまった天使に見えたのです。
そう思った原因として、その人が村で一番美人なアンナ姉さんよりも綺麗な金髪をお持ちだったことと、見たこともないような上等な服をお召しになっていたことがあげられると思います。
けれど、それ以上に深い部分で、その人は特別な存在に思われました。私に、私達にとって特別な存在に。

大丈夫ですかと駆けよると、その人は身じろぎをして目を覚まされました。

「あー、おれ、いきてる?」

生きてます、と返すとその人は何度か瞬きした後にゆっくりと体を起こしました。
軽くウェーブを描いた金髪が木漏れ日にきらきらと輝いて、やはり綺麗な人だと思いました。

「この近くの村の子かな?」

はい、と少し緊張しながら答えました。
するとその人は笑って私の髪を梳いてくれました。

「心配してくれたんだね。ありがと」

透き通った声はやはり綺麗で、まるで天使の歌声のようでした。

貴方は天使様ですかと、思い切って聞いてみました。
するとその人は少しだけ驚いたような顔をした後に「違うよ」と言ってお笑いになりました。

ああでも、天使でないのならこの人は誰なのでしょう。
こんな高貴で美しい方が、ただの人であるはずがないのです。

ならば王様ですか、と私はその夜明けの空をした瞳を見上げました。

「はは、天使の次は国王かぁ。ちょっと近くなったけど、やっぱり外れ」

私はとうとう、答えがわからなくなってしまいました。
困り切ってしまった私にその人はやはり笑って「俺は君だよ、ジュヌフィーユ<お嬢さん>」とおっしゃりました。

「それでもって、君も俺の一部だ。君たちがいるから、俺がいる。君たちの営みが俺の鼓動で、君たちのざわめきが俺の声だ。分かるかな?」

流れるように、歌われるように紡がれた言葉は曖昧で、私は謎解きですか、と質問しましたが、その人は首を横に振りました。

「そのままだよ。今は分からないかもしれないけれど、いつか分かる日が来るから」

穏やかなその声には、けれどどこか有無を言わせぬ響きがありました。
私は声に促されるように頷きました。
いい子だ、と頭を撫でてくれたその人には、全てを包み込んでくださるような温かさがありました。

ああ、やはりこの人は天の御使いなのだと、私はただただその人を見上げていたのです。


降り注ぐ木漏れ日が、あの人を神々しく照らしていました。





その一件をきっかけに、その人は時折私を訪ねて下さるようになりました。
あまり長い時間を共に過ごすことは叶いませんでしたが、訪れる度に私に外の世界のことを話して下さいました。

「今の王太子はシャルル7世って言ってね。本当はこいつが王様になるはずだったんだけどイギリスのほうが出しゃばってきて……」

あの人が語ってくださるのはいつも少しだけ複雑な“国”のことでした。
戦争、政治、そんな騎士様方が学ぶようなことを、あの人は地面に絵を描きながら説明して下さったのです。
硬い地面に棒きれで描いたというのに、その絵はとても綺麗で、その絵を頼りに人を探すことさえも簡単なように思えました。

「王様になるにはランスって神聖な街で戴冠をしなきゃならないんだけど、やっぱりイギリスが出しゃばっててねー」

地面に描かれた絵は時に書き足され、時に消されながらどんどん複雑になっていきます。
それを何とか理解しようと、私は必死にその声に耳を傾けていました。
その声は不思議と耳に吸い込まれるようで、教えていただいた知識を忘れることはありませんでした。


そんな日々が1年、2年、3年と過ぎ、気付けば季節は夏、あの人と初めてお会いした木漏れ日の美しい季節にまで移り変わっていました。
その間にも王様が即位することはなく、戦争が終わることはありませんでした。
あの人が少しずつ、本当に少しずつやつれていかれていることには、気付かないふりをしていました。

オルレアンに行くことになった、とあの人はおっしゃいました。
少し長い間、会いに来れないかもしれないと。
あの人にお会いできない日々は寂しく思われましたが、頷くほかに私にできることはありませんでした。


私に縁談が持ち上がったのもそのころです。
私を娶りたいとおっしゃる男性がいると、母が私に勧めてきたのです。
周囲よりも少し豊かであったとはいえ農民の娘であった私には、その純朴な男性は分相応な方であったと思います。

けれど、その縁談を持ちかけられたとき、一番に思い浮かんだのは他でもないあの人でした。 その頃の私はすでに、あの人を天使だと思うことはなくなっていました。

私は、あの謎解きの答えを知ってしまっていたのです。

母の勧めを断るのも気まずく、けれどその男性の心に応えることもできずに私はずるずると縁談の返事を先延ばしにしていました。



そして季節は過ぎて、秋。
小さな田舎町にまで伝播するような重大な出来事が起きました。

――英国王軍が南下、オルレアンを包囲

この、言葉にしてしまえばたった数行にも満たない現実が、私を大きく打ちのめしました。
錯乱と混乱と失意の中で、私は気付けばあの縁談を断っていました。
私の心は、その時にもう決まっていたのだと思います。

あの地に行かなくてはと、そればかりを考えていました。
この国を救わなくてはと、そればかりを考えていました。


ああ神様。

決して交わることのなかった私とあの人を出会わせたのはこの為なのですか。
あの人を通じてこの国の今を教えて下さったのはこの為だったのですか。

私に、この国を守れと、そうおっしゃるのですか――。





オルレアンの開放を。ランスでの戴冠を。

そればかりが私を突き動かしていました。
叔父の協力のもと近くの街の守備隊長様を3度訪ね、ようやくシノンへ、王太子様がいらっしゃる街へ行くための支援をいただくことができました。

王太子様への謁見が叶ったころには、私は一つ年を重ねていました。
それでもやっと、ここまで来たのです。
豪華絢爛なお城は農民の娘がいるには不釣り合い過ぎて、私は常に萎縮していましたが、これが私に与えられた使命なのだと言い聞かせて何とか背筋を伸ばし立っていました。

ここで倒れるわけにはいかないのです。
オルレアンを開放するまで。ランスでの戴冠を成功させるまで。
この国を、救うまで。


いよいよ広間での謁見が迫り、私はひどく緊張していましたが、それは広間に入った瞬間にほぐれてしまいました。

だって、本来王様が座っているはずの玉座には全く違う人が座っていたのですから。
まるで自分が王様だと言わんばかりに座っているその人がおかしくて、私の唇は少しだけ緩んでしまいました。
それを慌てて諌めて、私は広間を見回しました。
広間には大勢の家来の方がいらっしゃいましたが、私はその中から直ちに王太子様を見つけることが出来ました。
あの人の描いて下さった王太子様の似顔絵と目の前にいる家来の恰好をしたその方は、本当に瓜二つだったのです。

私はその方の前に進み出て、跪きました。

はじめまして、王様、と挨拶をすれば広間にどよめきが広がりました。


ああこれで。
また一歩私の使命に近付く。





私は甲冑を身にまとい、馬に乗り、旗印を掲げオルレアンへと入りました。
おびただしい数の方が、私たちを歓迎して下さいました。

その中に、あの人の姿もありました。
最後にお会いした時よりも一層やつれた姿は、私の胸をひどく締め付けました。

思わず駆け寄った私を、あの人はどこか痛ましそうな顔で迎えました。
頬に伸ばされた手はカサついていて、あの頃の美しく手入れされた指を思うと私の胸はますます軋みました。

「どうして来たの」

擦れた声は痛々しくて、見上げた表情は悲痛なものでした。
ああ、この人にこんな顔をさせるくらいなら来ないほうがよかったのかもしれないと、私は初めて村を出たことを後悔しました。
それでも、これは私の使命なのです。

貴方を守るためです、我が祖国。

私はそう、あの人の手に自分の手を重ねながら言いました。
痛む心をひた隠して、笑いながら。





生まれて初めて、矢を受けました。

けれど、溢れた涙は痛みのためだけではありませんでした。
この痛みは戦場に立つすべての人に降り注ぐものなのです。
この痛みは、この国の痛みそのものなのです。

あの人は幾度となく私に陣営で待つように勧めましたが、それに従うわけにはいきませんでした。
今夜は必ず橋を渡って街に入れるでしょう、そうあの人を説き伏せて、私はその日、始終戦禍の只中で旗を掲げ続けていました。

私がオルレアンに入城を果たして、9日が過ぎた日のことでした。
その日は、私たちが南岸の砦を奪還した日でもありました。

翌日、英国王軍は撤退していきました。
私たちは、オルレアンの開放に成功したのです。

旗印を掲げ、聖堂へ向かう道中、私の胸は誇らしさと達成感でいっぱいでした。



街を、あの人を救ってくださったことを神に感謝し、私は夜更けまで聖堂でお祈りをささげていました。
あれほど穏やかな思いでお祈りを捧げられたのは半年ぶりのことでした。
オルレアンの包囲を聞いた瞬間から、私の心に安らかに祈る余裕は失われていたのです。

瀕死の兵士が息を吹き返されたこと、沢山の死の中で新しい命が芽生えたこと、全てに感謝を。

月光の差しこむ聖堂の中で、私は頭を下げ続けていました。


そこに、あの人がいらっしゃいました。
貴方もお祈りにいらっしゃったのですか、と私が尋ねるとあの人は穏やかに首を横に振りました。

「神様じゃなくて君に会いに来たの」

戸惑った私は、私にですか、と問い返したのですが、一方でその声が弾んだものになってはいないかと不安でもありました。

「まだお礼を言ってなかったなって思ってね。おかげで街が解放できた。ありがとう」

ここで一つ断っておきたいのですが、私の行動は、決して見返りを求めたものではありませんでした。
けれど、その言葉に私は胸から溢れだしてしまいそうな喜びを感じました。

ですから、「でも」と少し調子を落とした声であの人が続けられたときの落胆は大きいものでした。

「もう十分だよ。故郷に戻りなさい」

諭すような声でした。
泣きだしたくなるような、優しい声でした。

私はそれにできません、と答えました。

「la Pucelle」

聞き分けのない子を叱るような声。
間違いなくあの時の私は聞き分けのない子供そのものだったでしょう。

けれど、私は首を横に振り続けました。
まだ私の使命は終わっていないのです。

「女の子が戦場に立つものじゃないよ」

それが主の思し召しなのですと、私は食い下がりました。
あの人の言葉に従えないのは辛いことでしたが、私の使命を果たせないのはそれ以上に辛いことでした。

何としてもランスでの戴冠が必要なのです。
王様が戴冠を終えれば、敵国の勢力は衰えて行くはずなのです。
王様にも、この国にも、危害を加えることはなくなるはずなのです。

そう力説するとあの人は言葉を詰まらせました。
全て、あの人から教えていただいたことでした。

「あくまで神様のために戦うつもりかい、ラピュセル」

痛みをこらえるような顔で、あの人が言いました。
私は違います、と首を振りました。
あの人がいぶかしげな表情を作りました。


私は貴方の為に戦っているのです。


そう返せば、あの人は零れ落ちそうなほど大きく眼を見開かれました。

貴方を守るために戦います。
そう繰り返せば、あの人は痛みを残した表情のまま薄く笑いました。











――1429年7月、シャルル王太子、ランスでの聖別・戴冠式に成功。
――以降、国王とその側近たちはブルゴーニュ公との休戦・和解の戦略を目指していく。











ああ、どうして王様は理解して下さらないのでしょう。
敵は打倒し尽くすべきなのに、和解なんて。

そんな思いを胸に戦っていたからでしょうか。
開放戦はなかなか成功しませんでした。

こちらの兵は少なく、劣勢は火を見るより明らかでした。
撤退します、と兵に呼び掛けて私は城へと馬の鼻を向けました。


疲弊した兵たちを激励し、私は馬を走らせ続けました。
ようやく城が見え始めた時、私たちは信じられないものを目にしました。

濠にかかった吊り上げ橋が目の前で上げられて行くのです。

背後から近づく絶望の足音を、私たちは落陽の日を浴びながら聞いていました。



私を捕えたのはブルゴーニュ公の家臣でしたが、私はやがて英国に売られました。
ルーアンへと連行された私は、城の牢へと投獄されることとなりました。

冷たい牢の中であっても、私の心は安らかでした。
牢の中にまで届く風があったからでしょうか。
大丈夫、この国はもう斃れないと、そう確信することがどうしてか私にはできたのです。


石畳に跪いてお祈りを捧げていると、がちゃんと牢の鍵が開く音がしました。
閉じていた瞳を開けると、知らない男性の方が入ってくるところでした。
敵国に私は悪魔だと思われているらしく、私に進んで触れたがる方はいなかったので、何も言わずに近寄ってくるその方を私はいぶかしげに見上げました。

突然、腕を掴まれました。

悲鳴を上げる間もなく私は硬い寝台の上に投げ出されていました。
ようやく私は自分の置かれている現状を知りました。
私は、どうしようもなく女なのだと。そう思い知らされる瞬間でした。

今までこんなことがなかった理由は明白でした。
守ると公言しながら、本当に守られていたのは私自身だったのです。
強く閉じた瞼の裏に、あの人の顔が浮かびました。

圧し掛かってくる体をがむしゃらに叩きました。
私が持つのは非力な女の腕だけです。
それでもひたすらに腕を振り回していました。
抵抗をやめてなるものかと、それだけにしがみついていました。

そうしているうちに、ごん、と鈍い音がしました。
次いで体にかかっていた重みが消えて、私に影を作っていた男の体はどさりと寝台から転げ落ちました。

何が起こったか理解できない私に、聞き慣れない声が降ってきました。

「大丈夫か?」

ぶっきらぼうに聞こえるそれは、無理矢理平静を取り繕ったような色が見え隠れしていました。
声につられるように持ち上げた視界に映ったのは、見覚えのある男性でした。
それは何度も戦場でまみえた、

何のつもりです、アングレーズ。
気付けば私は相手を睨みつけていました。
敵国の将に助けられたことが、一時とはいえ一兵として戦場に立った私には屈辱でした。

「涙目でそんなこと言ったって説得力ないぞ」

眉をひそめて咎めるような顔をした男性の真意が、私には本当に分かりませんでした。
それが顔に出ていたのでしょう、男性は不本意そうに眼を逸らしながら言い捨てました。

「お前に何かあったら俺が後でとやかく言われそうなんだよ」

これもおかしな返答でした。
処刑裁判にかけられ恐らく処刑される娘の純潔の有無で、どうしてこの人が責められるのでしょう。
そのことに男性も思い当ったのでしょう。何やらうめき声をあげたあと、男性は首の裏をかいて視線をさらに遠くへとやりました。

「見過ごせなかった、ただそれだけだ。敵国の悪魔とはいえ女だからな」

そう言いきると、男性は大袈裟な動作で踵を返しました。
寝台の下に倒れたままだった男の襟を掴んで引き摺りながら、男性は牢から出て行きました。

ガシャン、と、再び牢に錠が下ろされました。

鉄格子越しに、男性が振り向きました。癖なのでしょうか、やはり首の後ろを掻きながら。

「あー、前にお前らのことをださいだとか言ったことがあったけどな、あれは女の後ろに隠れてるあいつをださいって言ったわけであって、別にお前をださいって言ったわけじゃないからな」

そうまくし立てられて、私は唖然としました。

「“俺”個人の意見だが、芯がしっかりした女は嫌いじゃない」

最後にそう言い残して、男性は今度こそ牢から立ち去って行きました。


その後ろ姿に、なぜでしょうか、あの人の背中がだぶって見えました。





「処刑の日取りが決まった」

久しぶりに私のも前に姿を現したあの男性は、牢を訪れ開口一番にそう言いました。
処刑裁判が決まってから4カ月ほど経ったある日のことでした。
私は静かに、そうですか、とその声を受け入れました。

すると男性は、自らが宣告を受けたような顔で目を伏せました。
なんて不器用で、優しい人なのでしょう。
敵国の兵でなかったらと、幾度となく思いました。
けれど、きっとそんなものは関係ないのです。

時折こっそりと訪れては私が眠っている間に牢にパンを差し入れてくれる、そんな分かりづらい優しさを思い出し、私は思わず微笑みました。
そんな私を見て、男性はますます痛ましげな顔をするのです。

「異端者は火刑だ。灰は、セーヌに流す」

出来る限り淡々と告げようとしたのでしょう、その声は低く潰れていました。
私はやはり、そうですか、と答えました。
男性はとうとう泣きだしてしまいそうな顔になりました。

「分かってんのか? 死ぬんだぞ」

それが主の望まれることであるならと、私は瞳を閉じました。

「火炙りになったやつに救済はない。最後の審判で復活するための器がないからな」

構いません、と私は強く言いました。
救済を、見返りを求めて剣を取ったわけではないのです。
そう、すべては。

私は、もし、と続けながら目を開きました。

もし、私を憐れんで下さるのなら、ひとつだけ、お願いを聞いていただけませんか。

「……なんだ、」

相変わらず、ぶっきらぼうな声でした。
痛いほどの優しさが隠し切れていないその声に、私は甘えました。
この人に頼むべきことではないとわかっていました。
それでも、私の願いは、これだけだから。

あの人をどうかお願いします、Angleterre

私の言葉に、彼は大きく眼を見開きました。
その表面に水の膜が張って、溢れだす一瞬前に彼はばっと背を向けました。

「気が向いたらなっ」

そう言い残して去っていく背中のために、私は祈りを捧げました。

貴方に神の御加護がありますように、と。





いよいよ処刑の日が翌日に迫った日のことです。

いつものように祈りをささげていた私は、がしゃんと鉄格子の揺れる音にはっとしました。
その音が思い起こさせるのは、身体にかかる重みと荒い息、あの日の恐ろしい出来事でした。
よみがえる恐ろしさに動くこともできず、私は跪いた姿勢のまま身をすくませていました。

ジャネット、と、懐かしい声で、懐かしい名を呼ばれました。
あの美しい金髪を最後に見たのはいつだったでしょうか。
月明かりに光るその色を見ただけで、胸が詰まりました。

外界と私を隔てる鉄格子にすがりつくように、あの人がそこに立っていました。

「逃げたいって言ってくれ。死にたくないって、一言でいいから」

ガシャン、と鉄格子がまた小さな音をたてました。
私は、夢を見ているのでしょうか。
あの人が私に手を伸ばしてくれるなんて、ああなんて幸せで残酷な夢。

「一言でも言ってくれたら、さらってあげるから」

言いませんよ、と私は笑いました。
私は、最後まで使命を果たします。
そう伝えれば、あの人は激昂した泣きそうな瞳で私を睨みました。
力任せに掴んだのでしょう、鉄格子ががしゃがしゃとけたたましい音をたてました。

「もう十分だ。もう十分使命を果たしたよ。これからは普通の女の子に戻ったっていいじゃないか。君にはもっと幸せに生きる権利があるはずなんだっ」

私にはもったいない言葉を、あの人は慈雨のように降らせてくれました。
私はもうそれだけで十分なのです。それだけで幸せなのです。

貴方の為に戦った私を否定したくはないから。
私は、首を横に振ることしかできないのです。

「ただの女の子じゃないか。なんで殺されなきゃいけないんだ。なんで救済も許されないんだ」

ああ、どうか嘆かないでください、我が祖国。
私はそうあの人に嘆願しました。
あの人の悲しみ、痛みだけが私の胸を締め付けるのです。

「だって、灰も残さないなんてむごすぎる……」
今までに聞いたことのないような細い声に、私は言葉を失いました。
降りた沈黙に、私は一つの決意をしました。
私の内に秘めておこうとしたことを、あの人に告げる決意を。
私は小さく息を吸い、組んだ指に力を込めて我が祖国、とあの人に呼びかけました。

私の灰はセーヌ川に流されます。
かつて貴方であった場所に還れること、私にとってこれ以上喜ばしいことはありません。
傲慢な考えだとわかっています。
けれど、この先も貴方とあれること、貴方を見守り続けられること、それに私は喜びを感じずにはいられないのです。

気付けば私は涙を流していました。
嗚咽交じりの声は、どれほど見苦しいものだったでしょうか。
身勝手な感情は、どれほどこの人に迷惑をかけるものだったでしょうか。
それでも、これが真っ白な私の想いでした。
私は後悔も未練も、残してはないのです。
だからどうか、貴方の涙という未練を私の胸に残さないでください。

「その言い方はずるいよ、ラピュセル。俺が何もできなくなる」

鉄格子の合間から伸ばされた腕が私の涙をさらってくださいました。
まるで初めて出会った時のような温かで穏やかな仕草で。
この優しい腕を守るために私は闘って来たのだと、そう心の底から思えることが私の一番の救いでした。

ああ、愛しい我が祖国。貴方に多くの幸が降り注ぎますように。

そのためになら、私のちっぽけな命なんて、何度捧げてもかまわないのです。

「俺は、君のために何ができる?」

なんてもったいないお言葉でしょう!
あの人は召使の娘にさえ救いを与えようと言ってくださるのです。 そして欲深い私は、胸の奥深くに沈めていたあの人に告げてしまいました。

叶うなら、どうか最期に祝福を。

私の言葉に、あの人は悲しげに微笑みました。

その悲しみを取り除く術を、私は知っていました。
私がただ戦場を去ればいい、それだけだと。
けれど、私はその笑顔に目を瞑ることも逃げることもできなかったのです。

あの人はそっと、私の額に祝福をくださりました。


ああ我が祖国、私は、貴方を――。





「主の名においてアーメン……俗称『乙女』こと……」

判決状が読み上げられ、私は火刑台へと送られました。
放たれた火の向こう、けぶる世界にあの人が見えました。

ああ神様!
愚かな私をお許しください。
あの人を愛してしまった愚かな私を。

ああ神様!
あの優しい人をお守りください。
私が愛した優しいあの人を。

ああ神様!
愚かな私をお許しください。
魂の消滅を前に、貴方様ではなくあの人に祈る私を。


ああ、神様、神様、神様!



「すべてを委ねます」







































「我が祖国よ、ジャンヌ・ダルクという英雄を覚えているかな?」

男の質問にフランスはへらりと笑った。

「えー、誰それ。ジャンヌちゃん? 確か俺の口説いた女の子の中にいたような気も、」
「彼女を斯様な少女たちと一緒にしないでいただきたい。彼女はこの国の英雄、聖女だ」
「ん? あれ? いや、やっぱいないな。いないいない」
「祖国よ!」

フランスの態度を咎めるように男が強く机をたたく。
“英雄”この男が恐らく最も好む言葉だ。

「国である貴公までが忘れているとは、嘆かわしい。いくら4世紀前のこととはいえ、彼女はこの国を救ったのですぞ。彼女は国の危機に英雄が立ち上がることを証明したのだ」

そう熱弁する男と対照的にフランスは欠伸を漏らし、それで?と男を促した。

「彼女が命を賭したこの国を再び分裂させてよいはずがないだろう。彼女は貴公に次ぐこの国の象徴だ。私はそれを国民に知らしめす!」

高らかにそう宣言した男は、マントを翻し部屋から出て行った。



男の背を見送ったフランスは小さく溜息をついてガシガシと頭をかいた。

「“英雄”なんて、俺は知らないよ」

窓の外は美しい夏だ。
中庭に植えられた木が大地に涼しげな木陰を作っている。

あの子と出会ったのも、こんな季節だった。

無垢に笑う、敬虔な瞳をした少女だった。
純朴で純粋な、ただの農民の娘だった。

あの子は、痛みに泣き、喜びに笑う、等身大の女の子だった。
ただ人より少しだけ、信仰に厚くて、行動力があって、毅い心を持っていただけ。

彼女の笑顔を知っているのは、もう自分しか残っていない。
素朴な笑顔は、神々しい聖女像に塗りつぶされていくことだろう。
それを、哀しいことだとは言わないけれど。



俺は君を聖女とは呼ばないよ。

聖女でも英雄でもない君を、せめて俺だけは覚えていよう。


狂おしくも愛おしい、俺の乙女<la Pucelle>