逃げるって、何処へ。
衝動に突き動かされて飛び出したものの、慣れないイギリスの街並みの中に安全な場所を探すことなどできなかった。
逃げろ!逃げろ!
ただそれだけを考えて夜通し走り続けた。
短い手足がもどかしい。
今までイギリスの家の床と、整えられた庭の芝生と、イギリスと歩いたストリートくらいしか知らなかった肉球は、長時間走り続けたせいで擦れ、血が滲み始めていた。
公園に迷い込んだ時に足の裏に刺さった木片は、地を踏むたびに鋭い痛みをもたらす。
空腹だって限界だ。
それでも。
そんな痛みよりも、空腹よりも、おそろしいものがある。
逃げろ!逃げろ!
駆ける足は止まらない。
ああ、あそこは安全そうだ。
走り続けた果てに見つけたのは、入り組んだ路地の、そのまた奥。
あそこまでは、あのおそろしいものだって来れないはず。
疲れ切った体を引きづって、路地に入り込む。
とりあえず、眠ろう。それから食べ物を。この際残飯だってネズミだってかまわない。
そしたら、また、逃げよう。
ふらふらとした足で進んでいくと、何かが低く鳴いた。
これは警告だ。
しまった、野良猫の縄張りか。
それでも、ここで尻尾を巻いて逃げるようなことはしない。
立ち向かうように鳴き声を返した。
かかってこい、と、そう。
物陰から出てきた猫の数は、一匹や二匹ではなかった。
恐怖は感じない。ただ不思議なほど晴れやかな高揚感が胸を占めていた。
かかってこい、最強が誰か教えてやる。
だって、俺は、
縄張りを侵されて苛立った猫達が一斉に飛びかかってきた。
そいつらに爪を立てて、噛みついて、体にとりついてきたやつらを振り払って。
退け!退け!そこを退け!
目的のために障害物を排除することに抵抗はない。
そうやって、自由を勝ち取ってきたんだ。
いくら体が大きく力が強くても、その数の多さにはかなわない。
ああ、面倒だ。
体に猫が鈴なりになって噛みついてくる。それを振り払うことをやめた。
大量の猫を体にぶら下げたまま、目の前の猫に噛みついた。
「ぎゃんっ」
深く強く噛みつけば、他の猫よりもひとまわりも大きかった猫はぐったりとして動かなくなった。
死んではいない。けれど、それは残りの猫達を怯ませるには十分だった。
一匹二匹と逃げて行き、最後に残ったのは、俺と気絶した大猫だけ。
これで邪魔するものはいない。やっとゆっくり休める。
予想外の猫との抗争で体はボロボロだ。彼が日々ブラッシングして整えていてくれた毛並みも、血と泥にまみれ今やぼろ雑巾のようだ。
じくじくと痛む傷口を労わるように舐めた。
逃げろ!
ああ、ここは安全だと思ったのに。
警鐘はやまない。
あれほど苦労して手に入れた場所さえも、安全ではない。安心できる場所ではない。
逃げろ!逃げろ!
駆ける足が何処に行くのか、自分でさえ理解していなかった。
逃げろ!
逃げろ!
逃げろ!
ただ、安全な場所を探して。
ただ、安心できる場所を目指して。
その後辿り着いた場所の何処も、目指した場所ではなかった。
ここなら、と思うたびに、あの警鐘が鳴りだすのだ。
休みたいのに、眠りたいのに。
そう願っても、鳴り響く警鐘がそれを許してくれない。
ずたぼろの体ではもう、駆けることなどとうに出来なくなっていて、それでも重い体を引き摺るようにして逃げ続けた。
逃げろ!逃げろ!
しつこく背後に迫ってくるおそろしいものから、逃げ続けた。
一歩踏み出すたびに視界が揺れる。
一歩踏み出すたびに足がおれてしまうそうだった。
ああ、きっとあそこは安全だ。
何度そう思ったことか。今度こそ、今度こそと、弱り切った体をだましながら進んでは、やまない警鐘に落胆する。
ああ、でも、ここは安心できるかもしれない。
まだ警鐘はやまない。頭の中に逃げろ逃げろと叫び続ける声がある。
なのに。
ここなら大丈夫だと、妙な確信があった。
あそこを越えれば、おそろしいものが来ても怖くはない。
あそこを越えれば、
踏み出した足が体を支え切れずにおれた。
ああ、目の前なのに……
一度足を止めてしまったら、もう駄目だった。
いくら心が逃げようとしても、目の前の場所を目指していても、体はとうの昔に限界だった。それを押してここまで来たのに。
体中を蝕んでいた痛みが薄れていく。
響いていた警告が小さくなっていく。
ゆっくりと、意識は闇へと落ちて行った。
ああ、あと少しだったのに……
生存本能が理性を凌駕する瞬間(08/04)
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