なまえをよばれたひ

13日目

ここは、安心できる場所。



ふわふわとしたぬくもりに包まれている。
泥のように重かった体が嘘のように軽かった。
とくん、とくん、と静かに刻む心臓の音が世界と己を分かつ唯一に思えた。

ああ、なんで彼の匂いがするのかな……

柔らかな空間は彼の匂いで満たされていて、それが余計に世界と己の境界をあいまいにしていた。このまま世界に溶けてしまえたら、きっと幸せなんだ。
そして、それを是としないのもまた、自分自身。
あの時だってそうだった。

ぬくもりの喪失か、ゆるやかな束縛か。

何度決断を迫られても、選ぶ答えは揺らがない。揺らいでは、いけないんだ。
こんなことで揺らいでしまったら、何よりも彼に怒られてしまう気がするから。
この心地よさに未練がないといえば、それは嘘になるけど、









ぱちりと目を開けると、ここ数日で見慣れてしまった景色が飛び込んできた。

あ、れ? 何で俺、ここにいるんだろう。

イギリスの家の、俺の定位置とも呼べるカゴの中。ふかふかとしたクッションの敷かれたそこは気に入っていたけれど、今俺がここにいる理由にはならない。
逃げ出したはずなのだ。この家から。この家で出会ったおそろしいものから。
逃げ切れた、のだろうか。
もうあのおそろしさはない。逃げろと叫ぶ声もない。

寝起きの頭での状況把握をあきらめて、とりあえずイギリスを探そうとカゴから出た。否、出ようとした。
立ち上がろうと踏み出した足に力が入らなくて、ぐしゃりとその場に落ちた。
体が重かった。意識した途端に体の節々が痛みだす。夢の中で感じた軽さなんて、あったもんじゃない。

「にゃぁー」
「イギリス―」
情けない声で彼を呼んだ。何となく、応えてくれるような気がした。
予想通り、慌てたようなバタバタという音がした。しかし、音源が随分と近い。何処からだろうとあたりを見回すと、ソファの陰からひょこりと彼が顔を出した。

ひどいかお。
君は猫一匹のためにそんなクマができるくらいの苦労をするのかい?
思わず自分に嫉妬。
元弟よりも、飼い猫のポジションの方が優遇されているような気がして、いや、気がするんじゃないな。確かにイギリスの中での比重は俺よりも、俺が中身の猫の方が重いわけで。

相互しない想いは、一人の心に溜めこむには重すぎる。

「目、覚めたか?」

イギリスの声はその表情に比例するように疲れ切っていた。それでも精一杯笑おうとする彼に胸が痛む。何か言わなくては、と思って、届かない声に何を乗せるのだと自問して、そんなことをしているうちにイギリスが席を立った。

「ミルク、温めてきてやるから」

そう言ってキッチンへと向かう後ろ姿にさえも、疲労が滲んでいた。



少しして、甘いにおいが漂ってきた。
ぐぐぅと無責任に空腹を告げる虫の音に辟易しつつも、ただイギリスが戻ってくるのをカゴの中で待っていた。

また少し時間が過ぎて。
目の前に差し出される皿。
おそるおそる舌で掬うと、適温に冷まされたそれが体に沁み渡った。
皿いっぱいに満たされていたミルクを飲みほしてしまうまでに、そう時間はかからなかった。

彼の手が力なく頭をなでる。

「ったく、今までどこに行ってたんだよ。家の前に倒れてるかと思ったら、丸一日目ぇ覚まさねぇし……」

俯いたイギリスが泣きそうな声で言った。

「にゃぅ?」
「イギリス……?」
「お前はいつもそうだ……。いっつも人にさんざん心配だけかけて……!」

かたかたと声が震えている。

「いつだってお前は、俺の一番酷い殺し方を知ってるんだ」

ふいに抱きあげられた。そのまま抱きしめられてしまって、薄い胸に押し付けられる。

「にゃあ」
「これじゃ顔が見えないよ、イギリス」
抗議の声を上げれば、より強く抱きしめられた。

「どこにも行かないって言ったくせに……」

恨みがましく呟かれては口を噤むしかない。

「ホントに首輪付けるぞ。名前もつけて……」

ホントに君の猫になれって?
ああ、それもいいかもね、なんて考えてしまう俺もいるわけだけど。
毎日この家で寝起きして、君が出かけるのを見送って、君が帰ってくるを待って、君が帰ってきたのを出迎えて、休みには君と出かけて。
きっとそれは、一つのしあわせな世界かもしれないけどね。
どうやら俺は君の望まないことしかできないようだから。君を傷付ける選択しか、できないようだから。

「そんなことしたって、お前はどっか行っちまうんだろうなぁ」

本当に。
ずっと君といたいと思うのにね。
どうしてかな。これが俺の性分だから。
誰かに縛られたら、生きていけないんだ。

それでもさ。

「にゃぁ」
「好きだよ、イギリス」
「もういい」

「にゃぁ」
「好きだよ」
「もういい!」

イギリスが声を荒げた。猫の聴覚が敏感にそれを拾って、体かびくりと震えた。

「もういい、どうせまたどこかに行っちまう癖に……!」

それでも、それでもさ。
この感情だけは疑わないで。

「にゃう」
「好きだよ」
君が好きなんだ。イギリス。

いつだって笑い返してくれたその人は、何も言わずにただ俺を強く抱きしめた。

「……本当は、もっと早くこうしておくべきだったんだ」

猫の耳でもやっと拾えるくらいの、小さな声でイギリスがつぶやく。
それは、どういう意味……?

そう問う前に、ばっと抱きしめる腕から解放された。
両脇に手を差し入れられて、ぶらりとぶら下げられている状態。
目の前に、イギリスの顔があった。

泣きそうで、哀しそうで、寂しそうで、苦しそうで、

彼にそんな顔をさせる原因を作ってしまったのが自分かと思うと、胸がギリギリと締め付けられた。
ねぇ、本当に。
どうして俺は君を傷付けることしかできないんだろう。

「もう、いいから」

イギリスの唇が動く。まるで懇願のようだと他人事のように思った。
ふいに鼻先に唇を押しつけられた。祈りの様なそれは、キスにも似た行為だった。


「呪いの解除条件は、名前を呼ぶこと」



え?



「かえってこいよ、アメリカ……」



世界が、暗転した。











前回書いたように、猫は痛みや恐怖といったものから逃げて、安全な場所に行こうとする習性があります。
もし外敵から逃げた先が自分の許なら。自分の許を安全な場所と判断してくれたなら。
それは飼い主として一番幸せなことだと思うのです。(08/09)