汝、それを悪と見ゆるか <前>

街外れの小高い丘に、その病院はあった。
白い外観、緑あふれる中庭。降り注ぐ暖かな日差しが、病院には不釣り合いに思えるほどに穏やかな空気を増長させていた。

その病院のホスピス病棟の一室に。

開け放たれた窓の縁に日光をその背に浴びる形で腰掛け、時折吹く優しい風に髪を遊ばせた青年がいた。
抱えた片膝に頬を置くような体勢で無機質な瞳をベッドに眠る老人に投げかける青年の背には、鳥にも似た翼があった。

神の使い、御使い、天使、人によって呼び方は様々だが、総じて人とは違う世界、天界に属する生き物。
慈悲深く、人に無償の愛を捧ぐ姿で描かれることが多いその生き物と同じ姿をしつつも、その瞳に感情の色はなく、冷めた表情ばかりが際立っていた。

天使は魂の運び屋にすぎない。死んだ人間の魂が生きた人間に害を及ぼさないように、その魂を回収し正しく転生できるよう導くのが、彼らの仕事だ。時には死神だとすら呼ばれる行為。
そこに愛だの慈悲だのは必要ないと、彼は、アーサーは考えていた。そもそも、そんな感情を未だに彼は理解できずにいる。人の流れをただ傍観し、人の死ばかりを看取る日々に、そんな感情が生まれるはずもなかった。

だから。

(何で、死なねぇんだろ……)

今もアーサーは酷く事務的な目で老人を見ていた。
ジョージ・アダムス。87歳。心臓に疾患あり。
死期が近く、アーサーが派遣された。はずなのだが、発作が起こるどころか、その容体はわずかにではあるが好転に向かっていた。

人の寿命など、日々変動するものだ。病は気から、とはよく言ったもので、あることがきっかけで寿命が半年延びた、なんて話は割とよく耳にすることではある。
だが、そんな事実を鑑みても、この老人は異常だった。

アーサーはふと眼を細めて老人の寿命を視た。天使は、紙上の数値を読み取るような感覚で人間の寿命を知ることができる。寿命は目視できるものではないし、それに対して「視る」という表現を使うことはおかしな話だったが、感覚としてはそれが一番近い。対象を視界におさめつつ、その寿命が知りたいと思えば情報が流れ込んでくる。

ジョージ・アダムスの寿命は、あと一日。詳しくは、あと20時間とちょっとだ。
そして、刻々と減っていくはずの時間は、アーサーがやってきたときから止まっている。一分たりとも減らないし、増すこともない。まるで誰かが時計の電池を抜いてしまったかのように、そのカウントダウンは止まったままだった。
同じ数字を見続けて早一週間。いい加減、原因を探るべきなのだろうか。

そんなことを考えつつも、アーサーは身動き一つすることなく窓辺に座り続けた。
その耳に、どたどたと走る音が届く。

(またあいつか)

ピシャンッ、と大きな音を立てて病室のドアが開いた。

「また来たんだぞ、アダムスさん!」

他の病室の患者に配慮一つしない大きな声。病室に飛び込んできたのは眼鏡をかけた学生らしき青年だ。金髪に青い目、眼鏡が本来与えるはずの知的なイメージを吹っ飛ばすハイテンション。
アルレッド・F・ジョーンズ。19歳。一か月前ボランティアで病院を訪問。その際にジョージ・アダムスと知り合い、以来3日とおかずに面会に訪れている。
それがアーサーの知りえる青年の情報だった。

ジョージがアルフレッドの声に目を開けた。というか、いくら面会に来たからって病人叩き起こすか?普通。

「おお、アルフレッド、よく来たな」
「昨日は最後まで話を聞けなかったからね! 続き、聞かせてよ」
「そうか、どこまで話したかな」
「ルソン島に上陸したあたりからだぞ」

そう言いながらジョージが身体を起こす。それを手伝いながら、アルフレッドは人懐っこい笑みを浮かべた。
ジョージは先の大戦を兵士として経験していた。アルフレッドは当時の武勇伝を聞きに飽きもせずにジョージに会いに来ていた。

少し離れたところに置いてあった丸椅子をベッドサイドまで持ってきてそれに腰掛けたアルフレッドは一瞬病室の中をうかがうようなしぐさを見せた。それはすぐに霧散して、ジョージの話に没頭してしまったが。

アーサーはもぞりと少しだけ身じろぎすると、抱えた膝に顎を乗せ直してアルフレッドを観察した。
アルフレッドは時折先ほどと同じような行動を見せていた。何度かジョージにこう問いかけていたりもした。「この部屋にはもう一人誰かいるのかい?」と。
見えてはいないようだが、アーサーの気配を感じ取っているらしい。

(こいつもそろそろ死ぬのか?)

本来、天使の姿は徒人には見えない。そんな天使の気配を感じ、見えるようになるということは、死期が近いということだ。その魂が、この世の摂理から外れる準備を始めているということだから。
これだけ体力が有り余っていそうな奴に限って病死はないだろう。ならば、事故死か。
もしかしたら、いつまでも減らないジョージの寿命を見ているよりもこっちの魂の回収の方が先になるのではと、アーサーはアルフレッドの寿命を視た。

「…………え?」

ジョージの元に来てから声を発したのは、それが初めてだった。それほどに、驚いた。
だって、だって、

声につられるように、アルフレッドがこちらをちらりと見た。その瞳が、しっかりとアーサーを映す。
にぃ、と口の端を持ち上げる。一瞬だけ、その瞳が昏い輝きを帯びた。

アルフレッド・F・ジョーンズ。残された寿命は、マイナスを示していた。



翼をしまって、人の形をとって、アーサーはジョージの病室へ早足で向かった。

病室の扉に手をかけると、アーサーが力を加える前に勝手に開いた。否、内側から誰かが扉を開けたのだ。そしてこの場面で扉を空けるのはただ一人。

青い瞳の青年が、入り口を塞ぐようにして立っていた。
窓辺で見たときは分からなかったが、アルフレッドはアーサーよりも幾許か背が高く、何かスポーツでもしているのか、筋肉質な体格はたった数センチの差をより大きなものにしていた。
その威圧感にわずかにアーサーがたじろいたのをちらりと見て、アルフレッドは病室を振り返った。

「じゃあ、今日はそろそろ帰るんだぞ」
「おお、また来るといい」
「もちろんさ!」

そうジョージ・アダムスと数言言葉を交わして、アーサーに向き直る。
途端に浮かんでいた明るい笑顔が消えて、ふ、と瞳が別人のような冷たい色を示した。

「おいで」

有無を言わさぬ声色で腕を引かれた。骨が軋むほどの強さで二の腕を握られて、アーサーがかすかに呻き声を漏らす。だが、アルフレッドはそれさえ気にも留めずに、アーサーの腕を引き、人気のない薄暗い通路へと、彼を連れ込んだ。



人の目が無くなった瞬間に、アーサーは壁に叩きつけられた。勢いに任せた所作に頭をしたたかに壁にぶつける。
抗議の声を上げようとした口は、喉を強く押さえられることによってその機能を失った。

「ちらちら気配がしてたから同業者かと思ってたけど、」

低い声はおおよそあの明るい好青年とは結び付かなかった。

「まさか天敵とはね」

くくっ、と喉の奥でアルフレッドが笑う。
アーサーは喉を締め付ける手を除けようと爪を立てたり引掻いたりと奮闘していたが、その言葉に思わず手を止めた。

同業者、天敵、マイナスを示す寿命、

そこから導き出される結論は一つだった。
呼吸さえも困難な状態のまま、そのわずかな隙間から洩れる呼気を無理やり振動させた。

「ま、さか……悪、魔……」
「ご名答」

にこり、と形作られた笑顔に、病室での無邪気さはない。むしろその背後に底知れぬおそろしさを感じさせるような、そんな笑み。

「まだあの魂を回収されては困るんだ。少し、大人しくしていてもらえるかい?」

そう言ってアルフレッドはアーサーの唇に己のそれを重ねた。

「!何すっ、?!」

抵抗をしようと身をよじったアーサーにアルフレッドはあっさり拘束の腕を離した。同時にアーサーの体がリノリウムの床に崩れ落ちる。力が入らない。大きな重りを載せられたかのように、全身が重かった。
驚愕と困惑の入り混じった表情を浮かべるアーサーをアルフレッドが見下ろす。

「そんなに良かった? 俺のキス。なんてね」

アルフレッドが揶揄するように笑った。その表情には、悪戯が成功して喜ぶ子供のような幼さが見え隠れしていた。

「てめぇ、何しやがった……」

力のこもらない四肢を叱咤して無理やり体を起こそうとするアーサーが低く呻く。
キス、とアルフレッドは言ったが、実際はその呼気が唇を撫でただけで、まともな接触すらしていないのだ。突然重くなった体にパニックを起こしたアーサーには、そのトリックが分からないでいた。

「まだ分からない? いいよ、教えてあげる」

床に這い蹲ったアーサーと目線を合わせるようにアルフレッドがしゃがみこむ。その肉厚な唇に人差し指を押し当てて、にやりと笑った。

「君みたいな天界の住人が、俺みたいな地下層暮らしの生き物の瘴気を吸って平気でいられるわけないだろう?」

天使は穢れを嫌う。地上に満ちた微妙な瘴気でさえ、彼らの地上での長期の滞在を拒むのだ。それこそ、瘴気の源といってもよい生物の呼気をまともに吸い込んでしまえば、その生体機能が低下するのは当たり前のこと。

それさえ分からないのかと青い瞳の悪魔は嗤う。



「これでもう、俺の邪魔はさせないよ?」










長いのを書く体力が残っていないので、ここでいったん切ります。
「悪魔な米→天使な英ですれ違いなシリアス話」とのリクエストでしたが、全然すれ違わない話になりそうです。米→英になるのかも不明だよ……じつにすみません(10/23)