演奏は常に全身全霊を込めて。
それは、ある種の矜持であったはずなのにと、アーサーは自分の演奏を振り返って思った。
手を抜いたわけじゃない。けれど、あれがお前の演奏かと問われれば、きっと自分は首を横に振る。
そうだ、これが自分らしい演奏。
コンサートの大トリを務めるアーサーは鍵盤に指を滑らせながら、そんなことを再実感した。
コンサート・グランドのピアノと自分だけがステージ上にいる。想いのままにピアノが弾けるのは、今も昔も楽しかった。
湧き上がる感情は、全てピアノへの情熱で塗りつぶして。
全てを閉ざして、今は最高の演奏をしよう。
クライマックスに和音を叩きつければ、観衆から割れんばかりの拍手が沸き起こった。
高揚する心を押さえて、アーサーは優雅に一礼した。
やっぱり楽しいな、音楽は。
けれど。
舞台の袖へと移動するわずかな間にアーサーは高鳴る胸を鎮めると、これからの計画に備えて小さく息を吐いた。
チャンスは一回。
そんな言い方は少し誇張しすぎのような気がしたが、今しかないと、そう感じた。
舞台袖から控室までの道のりを、声をかけてくる事務所のスタッフや奏者たちを退けながら足早に進む。あと少ししたら観客も控室に集まってきてしまうから、その前に。
「アルフレッド!」
控室に駆け込めば、いつも通り能天気な顔を晒すアルフレッドがいる。
「出るぞ。さっさと支度しろ!」
「え? ちょっとアーサー?! この後は事務所の打ち上げが、」
「んなもんサボればいいんだよ。早くしろ!」
戸惑うアルフレッドをせかして帰り支度をさせる。アーサー自身は燕尾服を脱いで、着替えもせずに上からコートを羽織った。わずかに汗ばんだシャツが不快だが、着替える時間はない。
自分の荷物を乱暴に肩にかけて、何とか身支度を整えたアルフレッドの手をとった。
「行くぞ!」
「だから、どこに!」
アルフレッドの絶叫は無視して、その手を引いて走りだす。控室を出て、通用口から外へ。
キンとした冷たさとはらはらと舞う雪に少しだけ怯んだが、それもすぐに振り払って走る。
その間中アルフレッドはどこに行くんだとか、車を取りに行かないと、なんて抗議の声を上げ続けていたけれど、アーサーが打ち上げの会場とは全く別方向に走るのを見て諦めたのか、アーサーの荷物を奪い取ってその隣に並んだ。
クリスマス一色の街を走る。雪に足を取られないよう、気をつけて、気をつけて。
街路樹は色とりどりのイルミネーションで飾られ、その光を受けて神秘的な色をした雪が降り続いている。
滅多に運動をしない体ではすぐに息は切れてしまって、途中からはほとんど歩くのと変わらないスピードになってしまったけれど。
はっ、はっ、と痛む喉から白い息を吐く。寒さにやられて目がしばしばした。冷たい空気のせいで指先の感覚がない。こういうのを、千切れそうな痛みと呼ぶんだっけ。ああ、大切な商売道具なのに。
それでも、アルフレッドとつないだ手だけはしっとりと熱を帯びるようで。
どうしようもなく、声をあげて笑いだしたい気分だった。
「で、事務所の打ち上げサボってまで、君はどこに行きたいの?」
そう、隣でアルフレッドが白い息を吐きながら笑う。相変わらず順応性の高い奴。
アーサーはそのわずかに赤くなった鼻先と頬に少しだけ罪悪感を覚えた。
でも、そんな寒さを感じさせないような笑顔を彼が見せるから。
「内緒」
そう言って笑った。握った手を引いて歩きだす。仕方ないなぁといわんばかりについてきてくれるアルフレッドに、アーサーは頬が緩むのを感じた。
幼い付き人も、よく同じような表情をした。
そうだよ、口では文句を言いながら結局は付いてきてくれるから。
だから、ついつい甘えてしまうんだ。
白い息を吐きながら、無言で歩く。つないだ手の熱があれば、言葉はいらないと思った。
「ここだ」
アーサーが足を止めて、半地下になった入口を示した。リースの飾られたドア。地下へ下りるための階段の隅には、雪をかぶったトナカイが置かれていた。
「『White Rose』……バー?」
「腐れ縁の店だよ」
小さく笑ってアーサーがアルフレッドを促す。冷たいコンクリートの階段を下りて、ドアを開けた。
アンティークなドアベルが鳴る。薄暗い店内から、温かな空気が流れてきた。
「いらっしゃいま、って、お前か」
「客に対してお前はねぇだろ」
「お前のどこが客なんだよ。タダ酒かっくらってくだけなのに」
カウンターの向こうでグラスを磨いていた腐れ縁、フランシスが露骨に眉をひそめた。
「知り合いかい?」
「だから、腐れ縁だ、つったろ?」
「ふぅん」
アーサーの返答に相鎚を打ちながら、アルフレッドは店内を見回した。少々手狭だが、落ち着いた雰囲気はアーサーの好みとも合っているのだろう。そこでアルフレッドはようやく店の奥に小さなステージがあることに気付いた。
ステージの端にはアップライト・ピアノ。中心には今のところ何も置かれていないが、椅子を並べても3重奏くらいまでなら演奏できそうな広さだ。
「ライブもできるんだ」
「プロ呼んでリサイタルをやることもあるし、客が勝手に演奏してくこともあるよ。坊っちゃんはその筆頭」
「酒代だ、酒代」
「アーサー・カークランドの演奏が酒代代わり……」
「言っとくけど、こいつ金になるような演奏はここじゃしないからね? べろんべろんに酔って酷いの弾くんだぜ」
いい営業妨害だ、とフランシスが眉をひそめる。
「それより髭、頼んでたの持って来たか?」
「ねえ、その固有名詞やめてくんない? お兄さんの髭はダンディーさを主張しつつもどこかユーモラスな印象をだなあ、」
「興味ねぇ」
フランシスの演説をバッサリと切り捨てて、アーサーはコートを脱いだ。室内とはいえ真冬にシャツ一枚は少し寒い気もしたが、走ってきた熱がまだ冷めない。
そんなアーサーに話を聞く気がないことを知ったフランシスは溜め息をついて、店の奥へと消えた。
「で、こんなところに来て何するつもりなんだい?」
独り取り残されていたアルフレッドがアーサーに問う。状況が理解できないと首をかしげるアルフレッドに、アーサーは含みのある笑みを浮かべた。
「ん? ああ、ちょっとな」
「アーサー、これでいい訳? 頼まれてたもの」
フランシスが戻ってきた。その手には、
ばっと身を翻して逃げようとしたアルフレッドのジャケットの襟をがっちりとつかむ。先程手を引いてホールから抜け出した時の比ではない抵抗を、アーサーは気合いで押さえつけた。
「ヴァイオリンは弾けないって言ってるだろ!」
「往生際が悪いぞ、アルフレッド」
「いーやーだー!!」
聞き分けのない子供のようになおも逃げようとするアルフレッドにアーサーは二や、と口の端を持ち上げてワザとらしく呟いた。
「このままじゃ指痛めるんだよ」
ピタリと止まる抵抗。
単純な奴。どこまでも、アーサーに、アーサーの演奏に影響が出ることはできない奴だ。
「それは卑怯だよ、アーサー」
アルフレッドがうなだれる。アーサーにジャケットから手を離すように促し、力を込めすぎて白くなった指をいたわるように撫でた。
「悪ぃ。でも、一回だけ。それ以上は、無理強いしねぇから」
「……一回だけだよ」
痛みをはらんだアルフレッドの声に、ごめんと口の中で呟いた。
でも、今回ヴァイオリンと演奏して実感した。ここでけじめをつけないと、前に進めない。
結局は自分のためじゃないかともう一人の自分が嘲笑う。
ああそうさ、そうだよ。全部全部自分のためだ。どうしても聞きたいんだから仕方ないじゃないか。心を攫ったあの音色をもう一度と、そう願って何が悪い。
「そいつが坊っちゃんがよく話してる“アルフレッド”ねぇ。ほれ、ヴァイオリン。知り合いから借りてきたやつだけど、最近弾いてないから調節は自分でしろ、ってさ」
フランシスがアルフレッドにヴァイオリンケースを渡す。しぶしぶながらもそれを受け取ったアルフレッドは手慣れた動作でヴァイオリンを取り出した。本体と弓を取り出した後に、少し悩むようなしぐさを見せて、アーサーに問いかける。
「これってやっぱり今じゃないとだめなのかい?」
「なんで」
「絶対自分のヴァイオリンのほうがいい演奏ができるし、どうせやるならちゃんと練習してからのほうがいいんだけど」
「プロは場所と道具を選らばねぇんだよ」
「プロじゃないし。……大体、君はピアノだから自分専用って概念がないだろうけど、ヴァイオリンは一本一本に癖があるんだよ。分かってる?」
「それでも……今が、いい」
少し決心が揺らぎかけたけど、チャンスは今しかない。アーサーが食い下がれば、アルフレッドは困ったように、仕方ないなぁと笑った。
「じゃ、せめて演奏の前に練習時間くらいはくれるんだろ?」
そう茶化すように言いながら、アルフレッドが弓の毛を張った。フランシスに弾いてもいいかと目で問う。先程まで周りを顧みずに会話していたが、ここはバーであり、店には客も入っている。そんな気遣いをするアルフレッドにフランシスは苦笑を交えながら承諾した。アーサーの頼みもあって、今日は常連しかいない。
許可をもらったことを確認して、ヴァイオリンを肩につがえる。その弦に弓を滑らせて、
アルフレッドは盛大に眉をひそめた。その原因には、アーサーも気づいた。いくらヴァイオリンが専門外とはいえ、これでも音楽家だ。
「うわー、全っ然調弦してないじゃないか、これ」
「だから、調節は自分でってお兄さん言ったじゃん」
「それにしたってこれは……」
「酷いな……」
語尾を濁したアルフレッドの後をアーサーが引き継ぐ。とてもじゃないが、演奏できる状態じゃない。
アルフレッドが大きく溜息をついた。それにつられるようにアーサーも視線を足元に落とした。ああ、今しかないと、そんな、たった一回のチャンスだったのに。
「ここ、音叉とかあるかい?」
「あるわけないでしょ。ここは音楽教室じゃないっての」
フランシスが否定を示すように手をひらひらと振る。その態度にアーサーは殴りかかりたい衝動を必死でこらえた。
「仕方ないなぁ……」
身動きをしたら、本気で泣き出してしまいそうだった。
「耳でやれるとこまでやってみるけど、合ってなくても文句言わないでくれよ」
そう言って、アルフレッドは再度弓を滑らせた。微細な音の違いを聞き分けて、弦の張りを調節していく。そんな様子を見ていたフランシスがアーサーの耳に口を寄せた。
「なぁ、調律って耳だけでできるもんだっけ?」
「ヴァイオリンの調弦はもともとある程度は耳に頼ってやるもんだからできないことねぇけど、2番線は普通音叉使って調弦するし、あのヴァイオリン、ホントに酷ぇから……」
「要するに、あの坊や今すごいことしてない?」
「あいつ、耳はいいからなぁ」
そう言ってアーサーは目を細めてアルフレッドを見た。
やがて調弦を終えたのか、アルフレッドが旋律ととれる音を奏で始める。
「エルガーか。坊っちゃんの好きな作曲家だっけ……って、お前すごい気持ち悪い顔してるんだけど」
「う、黙ってろ髭」
「だからそれを固有名詞にするなっての!」
やばい。口角が持ち上がるのが止められない。ついついニヤけそうになる口元を手で覆った。
エルガーのヴァイオリン・ソナタ。これをまた、一緒に演奏できるのか。
壁越しじゃない、生のヴァイオリンの音。
数年ぶりのそれを、アーサーはただ瞳を閉じて聴いた。
「とちっても文句言わないでくれよ」
「言わない言わない」
しつこく念を押すアルフレッドに苦笑しながら、アーサーは指をほぐした。
『いつか二人でリサイタルをしよう。俺のピアノと、お前のヴァイオリンで』
そんな幼い約束に今もこだわってる自分はきっとバカなんだと思う。それでも。
「さぁ、始めようか」
流れ出す旋律。求め続けた音楽。
全身全霊を込めて。一心に鍵盤を追う。遠慮も配慮も、そこにはない。そんなものは、必要ない。
アーサー・カークランドのピアノの特徴は楽譜にどこまでも忠実であり、だからこそ生まれる心を震わせるような表現力。
そしてもう一つ。
曲調も、旋律も、そこに込められた意図も、全てを把握したうえで、全てをぶっ壊すような、激情。
どこまでも楽譜に忠実であるはずなのに、そこに生み出されるのは彼以外表現しえない音楽だ。
隣でヴァイオリンを弾くのがアルフレッドであることの安心感が、言い表せない高揚に変わる。
どんな弾き方をしても、こいつならついてきてくれるという、絶対的な確信。
奏でられるヴァイオリンには相変わらず癖があって、でも聴き知ったそれになら絶対に合わせられるという、不動の自負。
本来穏やかにフェードアウトしていくはずの音楽を、大きく和音を叩きつけることで終わらせた。
次の瞬間、拍手の洪水に叩き込まれる。
ピアノとヴァイオリンの音だけに集中していた耳に突然響いた音は少し刺激が強い。
汗のにじんだ前髪を掻きあげて、アーサーはアルフレッドに笑いかけた。
「弾けんじゃねぇかよ」
「火事場の馬鹿力ってこういうことかな」
息を乱しながらアルフレッドが髪を掻き上げる。
「て言うか、君無茶振りしすぎ」
「お前も人のこと言えねぇだろ。何とかなったんだからいいんだよ」
「うん……、ありがとう、アーサー」
「ばーか、礼を言うのはこっちのほうだよ」
所在なさげに笑うアルフレッドを笑い飛ばして、アーサーは数音ピアノを奏でた。アルフレッドにも聴き覚えがあるであろう、その旋律。
「どうせだから、もう一曲どうだ?」
「一回だけって言ったのに」
そう文句を言いながらも、アルフレッドは再びヴァイオリンをつがえた。仕方ないなぁと細められるスカイブルー。
アーサーもピアノに向き直りながら、アルフレッドにだけ聞こえる声量で呟いた。
「好きなんだよ。お前のヴァイオリン」
「……俺は、ピアノひっくるめて君が好きだけどね」
「は、?!」
始まる演奏。
聞き捨てならないことを聞いたはずなのに問い返すこともできない。
けれど考え込みそうになったのは一瞬で、目の前の音楽に引き込まれる。
華やかなクリスマス・キャロル。楽しく弾かなきゃ意味がないだろう。
ただ少しだけ。
正確に読み取った作曲者の意図の中に下心を忍ばせて。
これが終わったら話をしよう。ああ、でもその前にもっと弾いていたいな。
まぁいいや。クリスマスの夜は、まだ長い。
今はただ、十年以上抱え続けた初恋を奏でていこうか。
これにて「トランクィッロ」完結となります。
トランクィッロ 【トランクィッロ】 tranquillo 〔伊〕
【曲想を表す標語】
穏やかに。静かに。
って意味だったのですが、あまり関係のない方向に話が進んでしまいました……。
でも楽しかったです。
この話のアルはちょっと弱気(当社比)な気がしたので見せ場も用意してみました。
ホント、付け焼刃の知識で書いたものなので……矛盾点等ございましたらご指摘ください(12/26)