「大事にしなよ、大切な指なんだから」
そう言って荷物を奪い取られる。
お前は、いつだってそうなんだ。
防音設備の整った部屋。グランドピアノが置ける広々とした間取り。
アーサーの所属する事務所が経営するアパートメントには、他の音楽家や音大の生徒などが入居している。アーサーの部屋は三階の一番奥で、その隣にアルフレッドの部屋。
カギを開けて室内に入ったアーサーに続いてアルフレッドもアーサーの部屋へと上がりこむ。
「荷物片づけておくから先にシャワー浴びてきたら? その間にご飯も用意しとくから」
「ああ悪い……、頼んだ……」
演奏会の疲れがどっと出たのかふらふらとバスルームに向かうアーサーの背をアルフレッドは苦笑気味に見送った。着替えとタオルを用意しておこう。そう思いながら抱えた荷物を下ろした。中身を分類して、片付けられるものは勝手に仕舞う。
それが終わったら着替えとタオルと脱衣所まで持って行って、ついでにアーサーに声をかけると派手な水音がした後に慌てふためいた返答が返ってきた。案の定、湯船で寝てしまっていたらしい。溺れないでね、と声をかけて、次はキッチンへ。
夕飯は味付けが濃いものをご所望らしいので、ポークソテーを作ることにした。ちょっとくどいかなと思いつつもクラムチャウダーも作ることにする。今夜も冷え込むだろうから、体が温まるものが食べたい。
演奏会のあとは長風呂になりがちなアーサーが上がってくる時間を計算しつつ、アルフレッドは買い置きのフランスパンを切り分けて、温めるためにオーブンに入れた。
そこで時計を確認すれば、帰宅してから結構な時間が経っていた。
「アーサー、寝てないー?」
これ以上湯船に入れておくと本当に熟睡してしまいそうなのでバスルームのほうに向かって声をかけた。曖昧ながらも返事が返ってきたので、そろそろ上がってくるだろう。
チャウダーの出来を確かめて、味付けに満足すると必要な食器類を出した。
バスルームのほうからはドライヤーを使う音が聞こえてくる。いつも髪から水を滴らせて上がってくるアーサーに再三注意した結果、やっとドライヤーで乾かしてくれるようになった。そんなに俺に乾かしてほしいの、と脅しをかけたのが効果的だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、アルフレッドはチャウダーをかき回した。
男二人で食卓を囲む。
ある一つのものに特化しすぎてほかのスキルはゼロに近いという天才にはよくあるパターンを体現したアーサーに生活能力はほとんどと言っていいほど、ない。
さすがに食事の準備までするのは付き人の管理の範疇から外れているような気がしないでもないが、ベストな健康状態を保つことがいい演奏につながるだろうと言い訳をしてアルフレッドは小まめにアーサーの世話を焼いている。
だってほっとくと廊下で死んでそうなんだもん、この人。
ソテーを口に運んだフォークを咥えながら、アルフレッドは向かいで食事をとるアーサーを観察した。ソテーを切り分ける動作も、それを口に運ぶ動作も、一つ一つが洗練されている。そういう教育を受けて育ってきた人だ。
何の気兼ねもなく、音楽に没頭できた環境。
天才が生まれるのは、所詮そんな場所でだけだ。
アーサーに気づかれないほど小さく溜息をついたアルフレッドは、その一瞬あとに自分の行動を後悔した。
なんか、やな感じ。
嫉妬、なんてごちゃごちゃとした感情ではないけれど、あまり綺麗とは言い難い感情が胸を渦巻くのを感じて、アルフレッドは軽く眼を伏せた。
夕食の後は大抵コーヒーを飲んでのんびりするのがアルフレッドの日課なのだが、アーサーの部屋で夕食を摂った時はアーサーが直々に紅茶を淹れてくれる。料理は全然なのにこんなところばかりは一流だ。
「明日は休みだけどまた日が暮れるまで布団の中とかはやらないでよ?」
「んー」
アルフレッドの忠告にアーサーが曖昧な返答を返す。紅茶のカップを片手に新聞を読む瞳は今にも閉じてしまいそうだ。もう深夜といってもいいくらいの時間だから当たり前か。
「眠いならもうベッドに行ったら? 片づけしたら勝手に俺は帰るからさ」
「泊まっていきゃぁいいのに」
「部屋隣なのにわざわざ泊まる必要もないだろ」
「うー、でも、鍵閉めねぇと」
「随分前に合鍵は預かってるよ」
「あれ、そうだったか……?」
「俺の部屋のも渡してあるはずなんだけどね」
もう半分寝ているようなアーサーとゆったりとした会話を続ける。
新聞に目を通し終えたのか、それを乱雑に畳みながらアーサーはふと壁に掛けられたカレンダーに目を移した。購入してきたのはアーサーだが、そこにスケジュールを記入したり月ごとにめくったりするのは主にアルフレッドだ。
びっしりと書き込まれたスケジュールを眺めながら、アーサーが首をかしげる。
「25って、予定入ってたか?」
「クリスマスだろ。クリスマスコンサート! 忘れないでくれよ、まったく」
「ああ、あー、あー?」
「思い出せてないだろ、それ。曲目、ちゃんと確認しといてくれよ」
「悪ぃ、なんだっけ?」
「えっと、確か……」
アルフレッドはジーンズのポケットから手帳を取り出して、それをぺらぺらと捲った。該当するページを見つけて、楽曲名を読み上げるとアーサーの眼の色が変わる。たんたんっとフローリングの床を跳ねる指はきっと無意識だ。頭の中で読み上げられた楽曲を流しながら、運指の確認をしてるんだろう。
てか、コンサートまで一ヵ月切ってるのに今の今まで曲目すら把握してなかったっていろいろ問題じゃないかい?
それでもこの人はやってのけるんだろうけど、と、アルフレッドは溜め息をついた。
「で、以上」
「なんか少なくねぇ?」
「今回はソロコンサートじゃないからね。事務所あげてのチャリティーコンサート」
「ふーん」
興味がない、と言わんばかりに生返事をしてアーサーはまた音の世界に没頭してしまった。明日は早く起きるように、なんて声をかけたけれど、これは一晩中ピアノに向き合っていそうな勢いだ。やめて欲しい。近所迷惑だ。おもに、隣部屋の自分が。
「あー、とっ、ごめん、まだあった。クリスマスキャロルを2本。ヴァイオリンの伴奏だけど」
「は? なんだよそれ」
「今うちの事務所が売り出してる若手ヴァイオリニストがいるのは分かる?」
「知らん」
きっぱりと言い切ったアーサーにアルフレッドは溜め息をついた。ぐしゃりと前髪をかき上げるようにして乱して、再度口を開く。
「言うと思った……。君の伴奏で演奏したってだけで結構箔がつくから、これを機にブレイクさせていきたいらしいよ。向こうの都合上、合わせて練習できるのが1週間くらいしかないらしいから、それまでにアーサーのほうは完璧にしといたほうがいいね」
「なんなんだ、その無茶振り……」
「ま、君ならできるだろ。別に初見の曲ってわけでもないんだし」
そう締めくくってアルフレッドはぱたんと手帳を閉じた。それを仕舞いなおしてから、アーサーの物言いたげな視線に気づく。
「まだ何か気になることあったかい?」
「や、気になることっつーか、その」
言いにくそうに頭をかくアーサーを目で促すと、何度も不明瞭な言葉を発した後にようやく本題を切り出した。
「そのキャロル、やっぱヴァイオリンと合わせて練習してぇから、アル、」
「無理」
「はぁ?! まだ最後まで言ってねぇだろ! 人の話はちゃんと聞けよ!」
「どうせ言いたいことは分かってるんだからいいじゃないか。俺にヴァイオリン弾けってのは無理だよ。何年前の話してるんだい?」
「でも弾けねぇわけじゃないだろ」
食い下がるアーサーにアルフレッドは大きく溜息をついた。
「もう何年もヴァイオリンなんて触ってないし、俺は君みたいに音聞けば弾けるってわけでもないの。よしんば引けたとしても俺の音は癖があるから、練習には向かないよ。もしヴァイオリンの音源が欲しいって言うなら、明日にでも事務所に行ってもらってくるから、」
「うそつき」
ぼそりとアーサーが呟く。吐息とともに吐き出した音をうまく聞き取れなかったのか、アルフレッドが首をかしげた。
「ん? なんか言ったかい?」
「なんでもねぇ。もう寝る」
「そっか、じゃあおやすみ」
「おやすみ」
ずるずると寝室に向かうアーサーの背を見送ってから、アルフレッドは食器類を片づけるためにキッチンへと向かった。
明日の予定が一つ増えてしまった。いくら向こう方が忙しいとはいえ、ヴァイオリンの音源くらいならすぐにもらえるだろうから、あまり面倒だとも思わないが。
かちゃかちゃと洗い物をしながらアルフレッドは溜め息をついた。溜息をつくと幸せが逃げるんだっけ? まあいいや、そんなこと。
「演奏なんて無理だよ、アーサー」
おおよそ繊細な動作に向かない大きな手を見下ろして、はぁと吐息を吐きだした。
あれ、どんどんピアニストと関係のない方向に行っている気がするぞ。
アルフレッド君が完全に通い妻状態なんですがどうすればいいんだろう、はいそうですね、さっさと婚姻届提出に行かせます。
現代パロを書くとホントアーサーが駄目な人になるなぁ(12/20)