恋<6>

応接室のドアが開くのと同時に隣り合っていた給湯室に逃げこんだアーサーは、ドアを背にずるずると座り込んだ。
心臓が全力疾走をした時の様に高鳴っている。あまりに大きな音を立てるから、ドア越しにでも気配を悟られてしまうんじゃないかなんてバカなことを考えた。

きぃ、と僅かにドアが開いた。

「坊ちゃん……何やってんの」

頭上から呆れたようなフランシスの声が降ってくる。
見上げれば声と違わぬ表情をしたフランシスがいた。

その背後では入ってきた“彼”と本田が談笑をしている。

「お久しぶりです、アルフレッド君」
「うん、菊も元気そうだね」
「おかげさまで。サークルの方々もお元気でしょうか?」
「みんな個性的にやってるよ。菊にも会いたがってたから、時間があったら遊びに来るべきなんだぞ」

その会話に気を取られていると、フランシスがドアの隙間を大きくした。
『ばかっ、お前が来たら誰かがここにいるってばれるだろ!』
そう叫ぼうとしたが、声が出ない。それでもパクパクとアーサーの唇が動いたのを正確に読んだのか、フランシスが疑念の表情を作った。

「ばれるって、誰に?」

決死の形相で応接室のドアの方を指し示すアーサーを見、たった今応接室に入ってきた青年を見、フランシスは。


それはそれは晴れやかに笑った。


その手が迫ってきたかと思うと、がっしりと襟首をつかまれて、

「な、髭っ、てめぇ何すっ!」

抵抗するアーサーを無理やり給湯室から引きずり出した。少々勢いがつきすぎていたのか、べちゃっ、と応接室の床にアーサーの体が転がる。

「はははは、日ごろの恨みだ、バーカ」

憎たらしい声に反応する前に、びっくりしたように見開かれる青い瞳を目が合ってしまった。
何で君がここにいるんだい? とでかでかと顔に書いてある。
ああ、なんだか最近こいつに嫌なとこばっかり見られてる気がする。

そんなことを考えている間に、アーサーの体は勝手に動いていた。
素早く上体を起こして、再び給湯室に駆け込む。バタンとドアを閉めて、中に立てこもろうとしたが、それはドアの隙間に差し込まれた手に遮られた。
ぎぎぎ、と隙間をこじ開けながらフランシスが顔をのぞかせる。

「何そんなに焦ってるのかなぁ、坊ちゃーん」
『うっせ、この前パブってあいつとお前と間違って殴っちまったから気まずいんだよ!』

声を落として、アーサーが反論する。本当はそれだけではないのだが、あれだけ酒を飲まされても洩らさなかった情報をこんなところで暴露するわけにもいかず、アーサーとフランシスはドアを挟んで拮抗を続けた。

「間違ったって、アーサー、」

ブッ、とフランシスが吹き出す。その態度に一瞬気を取られた。
次の瞬間にはドアを勢いよく引かれて、アーサーの体は再び応接室の床に転がっていた。

「お前っ、他人に間違ってアレやらかすとか、どんだけ。だから酒は飲むなって言ってんのに、馬鹿だねぇ」
「あの日はお前が飲ませたんだろうが!」
「何のことかなぁ?」
「てめぇ!!」

目の前にアルフレッドがいることも忘れてアーサーは声を荒げた。
2,30発殴ろうと拳を握りしめて、はたと呆然とした表情の本田と目が合う。そのまま隣に目を移せば同じような顔をしたアルフレッドとも。

「アー、サー……?」
「え、っと、これは、その……」

フランシスの前ではあれだけよく回った口も、アルフレッドを前にすると途端に滑りが悪くなる。
ああ、なんて言えばいいんだろう。というか、言い訳の余地が全く残されていない気がする。
床から立ち上がれないまま、アーサーは酸素を求める魚のようにパクパクと口を開閉した。

「間違ったって、この前の?」

アルフレッドがぽつりと言う。あまりに唐突で、それが何を指しているのか理解するのに少し時間がかかった。
この前の。この前の酔った日のこと。

「あ、ああ、あの日は、こいつと間違って、その……」
「ぶはっ、」

うまく言葉を紡げないアーサーに、フランシスが耐えきれなくなったように吹き出す。それをコンマ数秒で沈めて、アーサーはアルフレッドに向き直った。

「あの、こんな奴と間違っちまって、本当に、悪い……」
「別に、もう気にしてないからいいよ」
「そ、っか。ありがとう」

やっぱりいい奴だ。からりとした笑顔に頬が熱くなるのを必死で隠して、アーサーは次の言葉を探した。ぐるぐると周囲を見回して、一人取り残されている本田を見つける。

「あっ、この前言ってた日本人って、ホンダのことだったんだな」
「そ、サークルが一緒だったからよくお世話になったんだぞ」
「アルフレッド君とアーサーさんってお知り合いだったんですか?」

本田がアルフレッドとアーサーの口ぶりから二人が初対面ではないことを悟ったのか、きょとんと首をかしげた。童顔なためか、やや幼いその仕草も様になっている。

「ああ、それは、」
「今俺が住んでるマンションのお隣さんなんだぞ」
「それはそれは。偶然とは面白いものですね」
「うん、ホントにね」

弟を見守るような目で本田が笑う。それにアルフレッドも年相応の笑顔で答えた。
二人の様子に、少しだけ胸が痛んだ。付き合いの長さの違いだと、分かってはいるけれど、見たこのない表情が、他の人に向けられることが、悲しくて、切なくて、悔しくて。

「では、アルフレッド君、そろそろ行きますか」
「菊の手料理食べるのも久々だな。すっごく楽しみにしてたんだぞ」
「私も張り切ってしまって、少々作りすぎてしまったんですが……」
「問題ないんだぞ!」

どうやら今回アルフレッドは本田に食事を食べさせてもらいに来たらしい。この前の話からも、大学時代からよくあったやりとりなのだろう。二人の間柄は先輩後輩、もしくは友人なのだろうけれど、その仲のよさに、嫉妬する。
ぼうっと二人を眺めていると、本田がこちらを見てにっこりと笑った。

「よろしければ、アーサーさんとフランシスさんもご一緒にいかがですか?」
「あー、いや、俺は……、遠慮させてもらう」

アルフレッドともっと長い時間一緒にいれるのは、魅力的ではあったけれど。
一緒にいる時間が長ければ長いほど、アルフレッドと本田の仲のよさが、アルフレッドとアーサーのつながりの薄さが、何もかもが露見してしまいそうで、怖かった。

「そうですか……それは残念です。フランシスさんはどうされます?」
「お兄さんは坊ちゃんを家まで送らなきゃだから。その後に行ってもいいかな?」
「ええ、ぜひ」

そう言って笑う本田は非の打ちどころがなかった。決して人の中心にいるような人物ではないが、自然と周りに人が集まってくるタイプだ。羨ましいと、今までそんなことを感じたことはなかったはずなのに、思ってしまった。
もう少し社交性があったら、もう少し協調性があったら、もう少し、もう少し、…………。自分の性格の悪さを自覚しているだけに、募る思いがある。

「では、フランシスさん、またあとでお会いしましょう」
「すぐに駆けつけるから待っててね〜菊ちゃん」
「アーサーさんも、わざわざありがとうございました」
「あ、いや、俺は何もしてないしな」

バタンと事務所を出ていくアルフレッドと本田を見送って、アーサーは深いため息をついた。
ただの隣人と呼ぶには近すぎて、友人と呼ぶには異質すぎて、名前のつかない関係は、他からの干渉にいちいち大きく揺れる。
いっそ、ゴミ捨て場だけで会うただの隣人の方が良かった。週何度かの逢瀬に胸をときめかせる、バカみたいな恋で良かった。誰にも知られずに、悟られずに、想うだけで良かった。

良かった、筈なのに。

「じゃ、帰りますか。俺も早く菊ちゃんのご飯食べに行きたいしね」

そう言ってフランシスに頭を軽く叩かれても、アーサーはしばらくその場を動けずにいた。



「そう言えばさー」

アーサーをマンションまで送るという名目で車を走らせていたフランシスが、信号に引っ掛かったのをきっかけに口を開いた。車内に満ちたむせかえる様な芳香剤の匂いに辟易して、アーサーは口を開かないままに続きを促した。

「アルフレッドって言ったっけ、あの大学生」

ピクリとアーサーが反応を示したことにによっ、と緩む口角を引き締めて、フランシスが続ける。

「帰り際さぁ、すごい睨まれたんだけどどうしてだと思う?」
「ホンダの家に来てほしくないんじゃないか?」

息を吸うたびに甘だるい匂いが肺を満たして、アーサーは酔いを感じて目を閉じた。頭が重い。中心がぼんやりと霞がかるようで、深く思考しようとすると鈍く痛んだ。

「何でまた」
「ホンダと二人で飯食いたいとか」

口に出してみると、それが一番もっともらしい理由に思えてきた。アーサーがアルフレッドに向ける様な感情を、アルフレッドが本田に向けていないとは限らない。

「そう?俺はどっちかってと……、あれ? 寝ちゃったの、坊ちゃん?」

フランシスの声が、ゆっくりとフェードアウトしていく。睡魔に襲われるというよりは、頭痛が脳の機能を片っ端から止めていくような感覚。


鈍い頭痛と、アルフレッドの顔だけが、最後まで意識の隅にとどまっていた。










なんだかまとまりのない回になってしまいました。
あと二話くらいで終ってほしい。
ちょっとずつ伏線と呼ぶには些細ですが、仕掛けをばらまいています(09/25)