恋<7>

思えば、予兆はあったのだ。


何かを考えようとすると頭の奥がひどく痛む。
喉が何かに押しつぶされたように息苦しくて、口内にたまった唾液を呑み込むのにも鈍い痛みを伴う。
首元に触れた己の指の冷たさが心地よくて、火照った肌が不快で。
瞼が腫れぼったくて、開けているのがしんどい。
荒い息が熱いことを自覚してしまえば余計に辛くなることを知っていた。
乾いた舌がべたついた口内を蠢くが、飲み込めるだけの水分も体力ももう残っていない。
関節という関節が軋んで、もうどこが痛いのか分からなくなってくる。
体表はこんなにも熱を持っているのに、身体の芯が寒い寒いと叫んでいる。
身を起こしていると気持ち悪い。
横になっていると胃の中身が逆流してくるような気がする。
吐きそうだ、と感じて、本当の嘔吐感はこんな柔なものじゃないと思いなおす。
乾いた眼球を潤おそうと目を閉じても、熱を持った瞼に水分を持っていかれるだけだった。
それでも何度かゆるくまばたきをすると、目はパサ付いているのに涙が一筋こぼれる。
頬を伝って、顎を垂れて、首を流れていくそれが己の熱で蒸発していく。
生理的なものだったはずのそれは、いつしか感情をのせてぼろぼろと零れていく。
頬を濡らしていくそれがより感傷を刺激して。

つらい、いたい、しんどい、きもちわるい、いたい、さむい、さみしい、つらい、あつい、だれか、かなしい、だれか、だれか、いたい、かなしい、さみしい、さむい、さむい、さむい、、、


ずるりと、背が滑る。
部屋の壁にもたれていたアーサーは冷たいフローリングの上に力なく倒れ込んだ。

思えば、予兆はあったのだ。
いくら不意を突かれたとしても、フランシスの攻撃に二度とも受け身を取れなかった。
帰りのフランシスの車での頭痛は芳香剤の香りがもたらしたものではなかった。
もともと不規則で不健康な生活を送っているアーサーである。簡単なきっかけでその均衡は崩れてしまう。例えば睡眠時間を削って早朝に起きてみたり。例えば深酒で免疫力を下げてみたり。
何よりひきこもりがちなアーサーは人混みが苦手なのだ。パブなんてその他大勢がたくさんいるような空間は体力および精神をざっくりと削る。

そんなふうに積み重ねた無理の数々のしわ寄せが今来たのだ。
フランシスに事務所に拉致られた次の日。
見事に発熱したアーサーは一人、部屋の中で倒れていた。風邪薬なんてものを常備してある環境ではない。ギリギリまで無理を通してしまう性格もあって、ふいに体から力が抜けたかと思うと、そこから動けなくなってしまった。

携帯は持っていない。電話までは距離がありすぎる。外部からの連絡の取れない状態で、アーサーは床に伏していた。


「大丈夫かい? アーサー」

ふと声が聞こえて目を空ける。心配そうなアルフレッドがアーサーを覗きこんでいた。しょうがないな、と取り繕った表情でアルフレッドが手を伸ばしてくる。
恐る恐る手を伸ばして、差し出された手にアーサーの手が重なろうとした瞬間に、

ふっと手が、アルフレッドが消えて、アーサーは前のめりに倒れた。

その衝撃に、は、と目を空ける。
夕暮れに赤く染まった部屋が視界に広がっていた。
また熱が上がったのか、額にはじっとりと汗が滲んでる。アーサーはゆるゆると手を持ち上げて、額に張り付いた髪を払った。ついでにその額に掌を押し当ててみる。熱は感じられなかった。熱が掌にまで広がっているから。

さむい、

それは、冷えていく部屋のせいか、人のいない部屋のせいか。
ベッドまでの数メートルが遠い。アーサーはそこまで移動することをあきらめて目を閉じた。次に目覚めたときには冷たい部屋を見なくてもいいように、額にやった手を目元に移して。


「アーサー、アーサーってば!」

揺り動かされて目を開ければ、顔を輝かせたアルフレッドがいた。
ウソツキ、と心の中で誰かが、否、アーサー自身が叫ぶ。そんな笑顔、見たこともないくせに。そんな笑顔を、向けてもらう資格なんてないくせに。

「菊がご飯作ってくれるんだ。早く行こうよ」

にっこりと笑みを深めて。その笑みに胸が高鳴ると同時に、その奥で何かがひび割れる音がした。なあ、その笑顔は、俺のためのものじゃないんだろう?
もううんざりだと思うのに、夢というよりは幻覚に近いそれはアーサーの意思に反して続いていく。いや、反してなどいないのだ。その笑顔を向けられることを何より望んでいるのは、アーサー自身。

なあ、すきなんだよ。そんな無防備に笑わないで。そこに友情以外の感情がないことを知るのが怖いんだ。

「好きだ………」

相反する感情に涙がこぼれて、その冷たさに目が覚めた。
アーサーの熱が伝わってぬるくなったフローリングに転がっている、冷たい現実。
前に見たときには赤く染まっていた室内は、今は月明かりで青白く浮かび上がっていた。
寒さは少しだけ和らいでいた。けれど、これが気休めでしかないことを知っている。あと数時間もすればまた熱が上がってくるだろう。動けるうちにベッドに移動した方がいい。
そう思うのに体は全く動かなくて、アーサーの意識はあっという間に熱にさらわれて行ってしまった。


その晩は、何度もアルフレッドの幻覚を見て、何度も夜中に起きた。
熱は一向に引かず、フローリングなんて場所で眠ったせいで体の痛みは増すばかりだった。頭痛も増している。我ながら、馬鹿なことをしたと思った。

「アーサー、大丈夫かい?」
「大丈夫じゃねぇよ、ばかぁ」

渇いた喉が空気を震わせることができたかはあやしい。幻覚に声を返して、アーサーはごろりと無理矢理寝返りを打った。熱に侵されていない冷たいフローリングに頬を押しつけて、アーサーは眼を閉じた。
ふと今日が何曜日かを思い出して、ああ、ゴミ出しにいかねぇとなんて、無茶なことを考えた。


「アーサー! アーサー!?」

そう揺り動かされて起こされるのは何度目か。うっすらと目を空けると、見慣れないスニーカーが目に入った。視線を上げていけば、安堵したような顔があった。

「アル…フレッ、ド……?」

動く唇が何を叫んでいるか聞こえない。何をそんなに焦っているのだろう。答えはアーサーの中にあるはずだった。これはアーサーの見る幻覚だから。
そっか、俺は誰かに心配してほしいんだ。
そんなことを思って、アルフレッドの手を伸ばす。

「好き、なんだ…………」

ああ、どうしてこんなに声が震えるんだろう。幻覚相手にいくら叫んでも本人には届かないのに。 ほら、今だって。


伸ばした手はふいに支えを失って床に落ちた。










なんてベタな……(笑) でも本当にあんな生活してたら体ぶっ壊すなんて騒ぎじゃないと思うんだ。
冒頭のつらつらとした病状報告とかぶっちゃけいらない気が……気が、じゃありませんね、いりませんね。
もうすぐ終わりなのにいつまでも米←英の平行線なんだが。
くっつくんですかね? こいつら(聞くな)(09/26)