恋<8>

ごろりと寝返りを打って、柔らかな羽毛布団に顔をうずめた。ぱさりと何かが落ちた気がしたが、気にしない。
ひんやりとしたシーツが火照った頬に心地いい。

あれ、俺いつの間にベッドに移動したんだっけ。

アーサーが薄く目を開くとやはりそこはベッドの上だった。部屋は薄暗いが、カーテンの隙間から洩れる日は明るいから、まだ昼間だ。

あれ、俺カーテンなんて閉めたっけ。

夢と現実が交差しすぎて、今がどちらなのか判別がつかない。身体が重いから、現実か。昨晩ほどではないけれど、吐き出すと息は未だに熱く湿っている。目を空けていることが辛くなって、瞼の重さに逆らわずに目を閉じた。

ふと、朦朧とする意識が微細な声を拾った。ほら、あれだ、体が弱っていると逆に感覚が過敏になる、あれ。
部屋、キッチンの方からかな。

「……うん、それは………、……ああ、そうか…………で、……うん…………」

ぼそぼそと話し声が聞こえる。誰かと話しているようなのに、どうしてだろう、一人分の声しか聞こえない。
でも、このこえ、は、

「……、うん。ありがとう、菊」

低い、秘め事を囁くような声は。だいすきな人の声、なのに。
ねぇ、そんな声で他の誰かの名を呼ばないで。締め付けられたように胸が痛むんだ。鈍い痛みが風邪による体調不良と溶け合って、アーサーを苛んだ。

心のわずかな揺れを弱った身体が何倍にも増幅して、飽和した感傷が閉じた瞼の合間からこぼれた。涙の冷たさが、熱を持った体があることを伝える。そんな体の存在すら、今のアーサーには煩わしかったが。

「アーサー……?」

潜めた声が名前を呼ぶ。声はすぐそこから。
対応に戸惑っているうちにアーサーの頬に何かひんやりとしたものが触れた。それに促されるように目を開ける。ぼやけた視界に映った金色。それが誰か確かめる必要なんてない。
重い腕を持ち上げて、頬に触れるひんやりとしたものに重ねた。そこでようやくひんやりとしたものが大きな手であることを知る。

「あ……、ぇ……」

思った以上に呂律が回らなかった。舌が思うように動かなくて、普段よりも質量があるように思えるそれを口内で持て余す。おかしいな、昨日は声はちゃんと出ていたのに。それとも、出ていると思い込んでいただけなのか。じゃあ声が出ない今は現実か? こいつがいる時点であり得ないだろ。

頬に触れていた手がするりと動いて、目の端に浮かんでいた涙を浚って行く。少しだけ、世界が晴れた。彼の瞳の青色が鮮明になる。

「すき、なのに……」

か細い声で鳴いた。愛しい愛しいと恋鳴くのに、こんなに細い音じゃ届かない。けれど、これがアーサーの限界だった。いくら言葉を紡ごうとしても唇が無為に動くばかりで。いくら想いを伝えようとしても涙になって流れ落ちるばかりで。

「そうだね……」

静かな声が落とされた。彼からの返答が返ってきたのは、初めてだった。力の入らない瞼を見開こうとすると、すい、と彼の手が動いてアーサーの視界を閉ざした。ひんやりとした掌は熱と涙で腫れた目元をやさしく癒やす。

なのに、なのに、

世界が闇に落ちる寸前に見た彼の顔は、酷く悲しげだった。

「もう………なよ、…………たら……から、」

始終穏やかで優しい声が子守唄のように響く。
闇に吸い込まれていく意識の中で、何か言わなくてはと思うのに、喉が震えるばかりで何一つ言葉にならなかった。



「アーサー、起きてる?」

ふわふわと夢の境目をさまよっていたアーサーは、その声に意識を浮上させた。今、アルフレッドの声がしたような、

「あ、起きてた」

開いた目と、こちらを覗き込む青がかち合う。


思考停止。


「えっ、おま、なんでっ、っ、ごほっ、」

思わず叫ぶと口内に溜まっていた唾液が喉に流れ込んで思いっきりむせた。アルフレッドが慌てたようにアーサーの背を支えて気道を確保してくれる。

「大丈夫かい?」

ふ、と顔が近くなる。喉は回復したが、この距離は違う意味で大丈夫じゃない。かぁああと頬に熱が集まっていくのを感じて、アーサーは身を引いた。

「大丈夫、大丈夫だから!」

掠れた声でそう言い張っても大した効果はない。アーサーがしどろもどろになっているうちに、ぴたりと何かが額に押し付けられた。
それがアルフレッドの手だと気付いた時にはキャパシティーオーバーで気絶しそうだった。指先が触れ合うだけでも許容量をはるかに超えてしまうのに、この接触は、無茶だ。

「熱はまだあるみたいだね。にしてはやたら元気だなぁ、君。熱出過ぎてハイにでもなってる?」

心配そうにアルフレッドが再び覗き込んでくる。指摘されたようにアーサーの頭の中は熱でぐちゃぐちゃだった。
というより、何より初めに突っ込むべきなのは、

「何で、ここに……?」
「鍵、開けっ放しになってたぞ」

いや、問題はそこじゃなくて。
疑念の目でアルフレッドを見上げると、う、と何かに詰まったような表情を浮かべて、次に諦めたような態度で口を開いた。

「君がゴミ出しに来ないから珍しいなって思って様子に来たんだけど、チャイム何度鳴らしても返事ないし、ためしにドアノブに手かけてみたら開くし、開けた先で君はぶっ倒れてるし……不法侵入したのは悪かったと思うけど、君だって酔って入ってきたことあるんだからおあいこだろ」

そう言い訳のように言うけれど。
もしかしなくてもそれから看病をしてくれたのだろう。見ず知らずの隣人にそこまでしてくれるアルフレッドの優しさを噛み締めながらも、アーサーは目を落した。

「悪い、迷惑かけた……」
「別にいいよ。菊経由でフランシスに連絡とったらよろしく頼まれちゃったしね」
「何で髭……」

この場には不釣り合いな名前に、アーサーがげんなりとした表情を浮かべた。どっと熱による疲れが襲ってきた。

「俺が知ってる君の知り合いは彼一人だからね。一緒に飲みに行ったりするんだから仲良いんだろ?」
「仲がいいっつーか、腐れ縁っつーか……」

形容しづらい、けれど良い方の部類には属さない表情を浮かべたアーサーにアルフレッドもつられて苦笑する。
熱がまだある、とアルフレッドは言ったが、昨晩に比べればだいぶ下がったし、喉の痛みも和らいでいる。きちんとベッドに入って休養を取ったことも大きいのだろう。あのまま床に倒れていたのならどうなっていたか分からない。アルフレッドに感謝しなくては。

「あ、そうだ、アーサー、何か食べれそうかい? 食べれるようならご飯持ってくるけど」
「あー、そこまで世話になるわけには、」
「君、あの日も同じようなこと言ってたな」

アルフレッドがくすりと笑う。

「病人は遠慮するべきじゃないんだぞ。それだけ元気なら食べれそうだね。俺の部屋にあるから持ってくるよ。あ、ついでに風邪薬も持ってくるけど、アレルギーとかあるかい?」

アルフレッドの問いに素直に首を横に振る。アーサーの返答を確認したアルフレッドはパタパタと駆け足でアーサーの部屋を出て行った。

ああ、俺迷惑かけてばっかだな。
酔って不法侵入したかと思えば次は風邪の看病までしてもらって。

「あんまり優しくするとつけあがるぞ」

今はいないアルフレッドに言葉を投げる。届かない恋でいいから、叶わない恋でいいから、想うだけの恋でいいから、お願いします、これ以上惹きつけないで。際限なく好きになってしまいそうで、怖かった。


そうこうしているうちにアルフレッドが一人用の鍋と食器類を器用に抱えて戻ってくる。蓋をしたままでも鍋の中身が美味しそうな匂いを漂わせていることが分かった。

枕元に移動させたテーブルに鍋をおいて蓋を開ける。ふわりと湯気が立ち上って、食欲をそそる匂いが満ちる。

「それ、なんだ?」

鍋の中身は見たことのないものだった。白い液状のものが入っているから初めはシチューか何かかと思ったのだが、匂いが全く違う。

「タマゴガユって言うんだぞ。菊直伝の日本料理なんだ。風邪の時はこれが一番だってさ」

そう説明しながらアルフレッドがお玉で鍋の中身を取り分ける。スプーンを添えて差し出されたそれをアーサーは恐る恐る受け取った。日本料理にはほとんど馴染みがない。説明された品名も理解できなかった。でも、この匂いはとても美味しそうだった。
そのままスプーンをとって、そこでアーサーは手を止めた。確認するようにアルフレッドを見る。

「いただきます、だったか?」
「ん。召し上がれなんだぞ!」

スプーンでその白い液体を掬う。見た目は水分の多いリゾットのようだ。思い切って口に運ぶ。薄味のそれは痛めた喉を刺激することなく胃へと滑り落ちていく。思えば丸一日ぶりの食事だった。 夢中になってスプーンを進めれば、アルフレッドが持ってきた鍋を空にするのはあっという間だった。

「ありがとう、うまかった」
「気に入ってもらえて何より」

笑いながらアルフレッドがスポーツドリンクのペットボトルを差し出す。アーサーがそれを飲んでいる間にアルフレッドは持ってきた風邪薬のパッケージを読んでいた。そこから目を上げないままに、アルフレッドがアーサーに質問を投げかける。

「アーサー、君年幾つ?」
「23」
「え、」

信じられないと言わんばかりの目でアルフレッドが見上げてくる。それを胡乱気に受け止めて、アーサーはなんだよ、と首をかしげた。

「君、俺より年上だったのかい?」
「童顔で悪かったな。ってか、酒飲んでる時点でお前より年上だろ」
「そっか、あれ?何で君俺の年知ってるんだい?」
「知ってるも何も、大学生なら俺より下だし」
「君、社会人だったのかい……?」

茫然とした表情で見上げてくるアルフレッドにアーサーはふん、と顔をそむけて見せた。童顔の自覚もあったし、ティーンに間違われることさえあるから、そんな誤解は日常茶飯事なのだけれど、なんだか納得がいかない。

「じゃ、とりあえず成人で大丈夫なんだな。えっと、6錠? 多っ」

そんなことを呟きながら風邪薬を渡してくる。それをスポーツドリンクで流し込んだアーサーはふぅと息をついた。そんなアーサーを確認してアルフレッドも立ち上がる。

「じゃあ、まず服を着替えた方がいいかな。結構汗かいてたし。それから、氷枕入る? 俺の部屋にあったと思うから持ってくるよ。あとは、しっかり眠って、休養をとるだけ!」

そう言ってアーサーを促して、自分は食器類を抱えて自分の部屋へと戻っていく。その背を見送って、アーサーは言われたとおりにもそもそと着替えをした。身体を動かすと頭がくらくらとして、痛みがぶり返してくるのを感じた。

立っていられなくてベッドに横になった。自然と目を閉じて、アルフレッドが戻ってくる音に耳を傾ける。

「アーサー、氷枕……あれ、寝ちゃった?」

声をかけられたからうっすらと目を空ける。ちょっとごめんね、と声を掛けられて頭を持ち上げられた。手早く枕が冷たいそれへと入れ替えられる。かと思えば今度は額にひんやりとした感覚があった。アルフレッドの手だ。

「熱、上がってきたね。今日はここにいるから、何か欲しいものあったら声掛けて」

ぼんやりとしてきた頭でアーサーはアルフレッドの言葉を反芻した。欲しいもの……。

「て、」
「え、?」
「手、貸してもらえるか?」

幾分か体温の低いそれを握っていると安心できるから。

「こんなことでいいなら」

アルフレッドが笑った。


なあ、だから、どうしてそんな目をするんだよ










あれ、長い。このシリーズは短めにするんじゃなかったのか。そして果たして次で終わるのか……
アーサーが弱りすぎてて誰ってのとアルが紳士すぎて誰っていう……もう別人ですね、こいつら。

風邪をひいたときは人の気配があると妙に安心できるものです(09/27)